知らない駅の切符

梢は、乗換案内より早く歩ける。毎朝七時四十二分の電車、三両目の二番扉。帰りは駅前のスーパーで同じ総菜を買う。予定どおりに動けば、考えなくて済んだ。信号の変わる秒数も、改札から自宅まで何歩かも、おおよそ分かる。休日も同じ道を歩き、知らない店ができても入口を横目で見るだけだった。

旅行の計画はいつも恋人が立てた。梢は時刻表を守る役で、それが自分の得意なことだと思っていた。

半年前に恋人と別れたあとも、その道順だけが二人暮らしの形を保っていた。もう待つ人のいない部屋へ、最短時間で帰り続けている。

隣室のユスフはトルコから来た留学生で、近所の道をよく梢に尋ねた。ところがある日、彼が最寄り駅とは反対方向から帰ってきたので、梢は迷ったのかと聞いた。

「迷うために、一駅前で降りました」

「わざと?」

「梢さんは、この町で観光客なら、どこで迷いますか?」

住んで五年になるのに答えられなかった。ユスフは使い終えた一日乗車券を小さく折り、梢へ渡した。

「明日、いつもの駅を一つ過ぎてください。買い物はしない。写真を一枚だけ撮る」

「何を?」

「知らないものを」

翌日、帰りの電車が最寄り駅へ滑り込んだ。梢は立ち上がりかけた。ホームの看板も、階段に近い位置も、閉店前のスーパーまでの残り時間も分かっている。

扉が開く。いつもの人波が降りていく。

梢はつり革を握ったまま動かなかった。扉が閉じると、乗り過ごした焦りが胸に走る。誰にも叱られないのに、約束を破ったようだった。

次の駅は、窓から見たことしかない。ホームの柱は水色で、降りた人々は梢の知らない方向へ迷いなく散っていく。改札前には、時刻表より大きな手描きの地図があった。降りると、改札の向こうに細い商店街と、屋根に大きな鯨を載せた銭湯が見えた。梢はスマートフォンを出し、鯨へ向ける。

画面の端に、夕焼けを見上げる自分の影が映り込んだ。

撮り直そうとして、やめた。梢はその一枚を保存し、帰りの時刻を調べずに、知らない改札から外へ出た。