石段の十七段目
地下鉄の長い階段で息が詰まり、杏奈は十七段目に立ち止まった。
人の流れが背中を追い越していく。会議に遅れる。そう思うほど呼吸は浅くなり、耳の奥で花火の破裂音がした。
十七歳の夏祭りでも、杏奈は同じように動けなくなった。
境内は人で埋まり、浴衣の袖が何度も腕に触れた。屋台の油の匂い、子どもの泣き声、太鼓。全部が一度に押し寄せ、視界が白くなった。
「こっち」
同級生の冬真が、手首ではなく浴衣の袖をつまみ、人の少ない裏参道へ連れ出した。
杏奈は石段に座り込んだ。花火を見るために来たのに、顔を上げられない。楽しめない自分が恥ずかしくて、謝り続けた。
冬真は隣に座り、石段を指で数えた。
「ここ、下から十七段目」
「だから何」
「次は十八段目。今はそれだけ分かればいい」
遠くで花火が上がる。冬真は色を説明しなかった。
「一発目」
破裂音が遅れて届く。
「二発目」
杏奈は呼吸を合わせた。吸って、音を待ち、吐く。十発目には、白かった視界に冬真のスニーカーが戻った。
「見なくていいの?」
杏奈が聞くと、冬真は肩をすくめた。
「見なくても花火は終わる。終わっても、次の音は来る」
二人は最後まで石段にいた。恋は始まらなかったし、冬真とは卒業後に疎遠になった。それでも杏奈は、あの夜初めて、楽しめない自分を置き去りにしなくていいと知った。
二十六歳の今、杏奈は大事なプレゼンを控えていた。失敗すれば担当を外されるかもしれない。だから朝から「平気」と言い続け、また自分を急かしていた。
地下鉄の十七段目で、杏奈は手すりを握る。
十八段目を見る。そこまででいい。
一段上がり、息を吐く。次は十九段目。会議室までを一気に考えない。
地上へ出ると、夏の光が眩しかった。杏奈は遅刻の連絡を入れ、続けて「到着後、五分だけ準備時間をください」と書いた。以前なら謝罪だけで終えていた文章だ。
送信して歩き出す。
あの祭りへ戻る必要はない。十七段目で覚えた呼吸は、今の自分の足で、十八段目へ進むためにある。