石膏像は見送らない
美術棟の共同アトリエで、蛯沢朔人は白いキャンバスを一度も汚さなかった。
中央には首の欠けた石膏像があり、霞ヶ浦菫子は木炭で輪郭を取り、鳥越廉太は卒業展の搬入表を確認している。
「描かないの?」と菫子。
「今日は見てるだけ」
「今日が最後の制作日だけど」
「だから」
朔人は一年間、公募に出しては落ちた。けれど落選が理由ではない。先月、傷んだ宗教画の修復実習を手伝い、新しい像を作るより、誰かの残した色を百年先へ渡す仕事を選んだ。
「修復科へ行く。自分の絵はもう描かない」
「描ける修復家のほうが強い」と廉太。
「強くならなくていい。自分の絵を残したいって欲が、邪魔なんだ」
壁には、朔人が一年生のときに描いた自画像がある。顔の半分が絵の具で潰れ、講師は〈消そうとした跡がいい〉と評した。
「持って帰る?」と廉太。
「いらない。あれを描いた人は、もう僕じゃない。でも他人でもない」
菫子は中学校の美術教師になる。「私は、生徒に下手な絵を捨てさせない」
廉太は画廊へ就職する。「俺は値札を付ける側。友達の絵にも」
「じゃあ三人とも、絵の周りにはいるんだな」と朔人。
「朔人だけ描かない」
「うん。それが僕の進路」
夕方、菫子の木炭が石膏像の目を黒くした。廉太は搬入表の朔人の欄に二重線を引く。卒業展に彼の作品は出ない。
「その白いキャンバスだけでも持って帰れば?」
「白いままなら、ここにあったほうがいい」
朔人はキャンバスを壁へ向けて立てかけ、筆洗いだけを持って出た。残った二人が消灯すると、街灯が石膏像の肩を照らす。
菫子は自分の画用紙の端に、朔人の空いた椅子を小さく描き足した。朔人が気づき、『僕を作品にしないで』と言う。菫子は椅子だけならいいでしょ、と返した。人物を描かないことでしか残せない人もいる、と三人はその場で知った。
白いキャンバスは壁を見つめ、首の欠けた像は反対側を向いたままだった。どちらも朔人を見送らず、二つの白だけが暗い部屋に残った。