石鹸一個で疫病区を救う
黒斑病に封鎖された南区では、治療院の鐘が鳴りやまなかった。
患者の手に煤のような斑点が現れ、三日で肺へ広がる。高位神官の浄化も効かない。見習い薬師リゼットは、患者が必ず共同井戸を使ったあと発症していることに気づいたが、井戸水そのものには毒がなかった。
汚れているのは、水を汲む鉄の取っ手だ。
問題は、こびりついた呪いを落とす術がないことだった。
薬師登録でもらった《初回十連》を、リゼットは井戸端で使った。
包帯、乾燥薬草、小瓶などが九つ。残る一つは、香りも色もない四角い石鹸。
《よく落ちる石鹸/用途:手洗い》
周囲の神官が肩を落とす。
「そんなもので疫病が治るなら苦労はない」
「治すんじゃありません。運ばせないんです」
リゼットは石鹸を濡らし、井戸の取っ手を洗った。
一度こすっただけで、透明な泡が鉄から縄へ、滑車から石組みへ走る。泡は地下の水路へ潜り、南区じゅうの井戸と手桶を巡った。患者の手に浮かぶ黒斑からも小さな泡が湧き、煤のような呪いを包んで消していく。
治療院の咳が、一つ、また一つと止まった。
リゼットは残った石鹸を広場へ置き、板に手順を書いた。
『井戸を使う前と後に、十数えるまで手を洗う。身分を問わず同じ石鹸を使う』
命令される前に、パン屋が水桶を運び、鍛冶屋が洗い台を作り、子どもたちが十まで数える歌を考えた。夕方には、封鎖門の内側に白い泡の列ができていた。
最後の患者の黒斑が消えたとき、石鹸の包装紙に金文字が浮かぶ。
貴族用の治療院から、石鹸を買い上げたいという使者が来た。リゼットは首を横に振り、代わりに石鹸を鎖で公共の洗い台へつないだ。誰でも使え、誰も持ち去れない長さにしたのだ。最初に並んだのは下働きの少年、次は神官、その次は貴族の使者だった。同じ泡の前では、手の身分など見分けがつかなかった。
翌朝、治療院の鐘は一度だけ鳴った。死者を知らせる鐘ではなく、封鎖解除の合図だった。南区の門が開くと、外から来た人々もまず洗い台へ並ぶ。救われた街は、奇跡を飾るより先に、手を洗う習慣を入口へ置いた。
《神話級〈原初浄化石鹸〉――世界初の感染経路完全遮断を確認》