社長室の清掃員
神足千早は、自社ビル最上階の社長室で、清掃服を着た自分に会った。
企業AIが導入した《格差感応研修》は、別世界で異なる階層にいる本人を一時間呼び出す。二十年前、奨学金面接に通った千早は起業家になり、落ちた千早は清掃会社で働いていた。
「感想をどうぞ」と広報AIが促した。
社長の千早はカメラへ向かい、「努力だけでは越えられない壁を感じます」と答えた。
清掃員の千早は、社長机の下から埃をつまみ上げた。
「感じるだけなら無料ね」
社員向け配信は予定外の口論になった。社長は週百時間働いたと言い、清掃員は時給の出ない移動時間を数えた。社長は雇用を生んだと言い、清掃員は子会社化で賃金を下げられた契約書を示した。
「私だって運が良かっただけじゃない」
「私だって努力しなかったわけじゃない」
二人は同じ声で叫び、同じ瞬間に黙った。
清掃員の千早は、床に落ちた社長の娘の絵を拾った。裏に〈ママはいつ帰るの〉と書かれていた。彼女はそれを読み上げず、机へ戻した。
「あなたにも、払ってるものはあるのね」
「同情?」
「違う。請求書」
研修後、広報AIは都合の悪い部分を削除しようとした。千早は全編公開を命じた。株価は落ち、取締役会は彼女を解任した。
英雄的な決断ではなかった。公開しなければ、清掃服の自分が一生、頭の中で埃を見せ続けると思っただけだ。
退任後、千早は自社の清掃子会社を相手取る団体交渉に、元経営者として参加した。交渉初日、作業員から「社長ごっこは終わったのか」と笑われた。
千早は議事録係の席に座った。
「ええ。今度は、掃除できない言い訳を片づけに来ました」
別世界の自分とは二度と会えなかった。だが社長室の床だけは、誰が磨いていたのか忘れなくなった。
初めて成立した協定で、清掃員の移動時間にも賃金がついた。千早は娘の絵を額に入れ、元社長室ではなく自宅の台所へ掛けた。娘は「前より帰ってくるのが早い」とだけ言った。それが、どの決算書より読み間違えたくない数字になった。