祖母の透明傘

祖母の家を売るため、私は十年ぶりに町へ戻った。

家具は古く、庭は荒れ、駅前の商店街は半分がシャッターを下ろしていた。思い出は手入れをしなければ美しく残るものだと思っていたが、実際には埃をかぶり、湿気を吸い、持ち主を困らせる。

片づけの帰りに雨が降った。

玄関に残っていた祖母の透明傘を開くと、雨粒が空中で止まった。車も、電線の雀も、遠くの踏切も動かない。

傘を差しているあいだ、私だけが歩けた。

止まった雨の中では、町の傷みが輪郭を変えた。

割れた看板には水滴が宝石のように連なり、空き店舗のガラスには向かいの紫陽花が幾重にも映っていた。道端の水たまりは、曇り空を一枚ずつ抱えている。

傘の骨に、小さな刺繍を見つけた。

透明なビニールの縁へ、白い糸で町の地図が縫われていた。駅、川、学校、祖母の家。目を凝らさなければ見えないほど細い線だ。

私が上京した年から増えたらしい建物もあった。祖母は歩けなくなってからも、誰かに町の話を聞くたび、地図を縫い足していたのだろう。

家の位置には、糸が何度も重ねられ、小さな花になっていた。

そこから駅まで、一本だけ金色の線が伸びている。私が帰省するときに歩いた道だった。途中の曲がり角には、幼い私が転んだ場所を示すように、赤い結び目まであった。

私は、祖母がこの町に取り残されたと思っていた。

電話のたび「変わりないよ」としか言わないから、何もない日々を送っているのだと決めつけていた。

けれど傘の内側には、私の知らない店も、橋も、曲がり角も増え続けていた。祖母は小さな町を、空より広く見ていた。

傘を閉じると、雨が一斉に落ちた。

音が戻り、紫陽花が揺れた。

翌日、不動産屋へ売却を一週間延ばすと伝えた。

家を残すと決めたわけではない。庭も屋根も、私一人では守れない。

ただ、捨てる前に歩いてみたくなった。傘に縫われた道を一本ずつ。

雨の日ごとに、私は町を歩いた。

白い地図の外へ新しいパン屋を見つけたので、金色の糸を買った。

最後の一針をどこへ向けるかは、まだ決めていない。