祭りの席を空ける
碧の母は、夏祭りの話をするときだけ声が十歳若くなる。
「今年も桟敷席、一つ取ってあるから。二十八最後の夏でしょう?」
二十九歳の誕生日は九月だった。母が送ってきた高速バスの予約番号と、友人から届いた小劇場の電子チケットは、同じ土曜日の日付だった。劇場では、碧が三年前から追いかけている劇団の解散公演がある。
祭りは来年もある。けれど母は「来年は分からない」と言う。毎年そう言い、碧は毎年帰ってきた。桟敷の端に座り、太鼓が鳴るたび、自分はまだ町の一員だと確かめた。
解散公演は一度きりだ。けれど一人で観に行ったところで、人生が変わるわけではない。母をがっかりさせるほどの理由になるのか、碧には自信がなかった。
「今年は帰らない」
電話の向こうで祭囃子の練習が聞こえた。
「席、空いちゃうよ」
その一言が胸に刺さった。空席は見える。行かなかった理由は見えない。母の隣に残る一人分の板張りが、碧の身勝手を一晩中示すだろう。
「誰か誘って。空いたままでもいい」
電話を切ったあと、碧は二つの画面を開いた。高速バスの「予約取消」と、劇場の「チケット表示」。指はしばらく動かなかった。
バスを取り消すと、手数料が三百円引かれた。解散公演の席は後方で、舞台はよく見えないかもしれない。
それでも碧は電子チケットを財布アプリへ保存した。祭りへ行かなかった夏を、母の寂しさのせいにも、劇団のせいにもせず、自分が選んだ空席として覚えておくことにした。
公演の開演直前、母から花火の動画が届いた。画面の端に、碧のための座布団が空いたまま映っていた。胸が縮み、劇場を出て電話したくなった。だが客席の灯りが落ち、舞台に一人目の俳優が立った。碧はスマートフォンを電源ごと切った。終演後に母が怒っていても、動画を見返して泣いても、それは消せない。見えにくい後方席から身を乗り出し、選んだ一夜を最後まで観ることにした。拍手が始まるまで、空席の映像をもう開かなかった。