窓辺へ戻るバジル
伊吹結菜が一日だけ病院を出たのは、バジルの鉢を返すためだった。
半年前、アパート一階のカフェでパスタを食べた帰り、店主から小さな苗をもらった。「余ったから」と言われた苗は、結菜のベランダで枝を増やし、夏には植木鉢からはみ出した。入院後は友人が水をやってくれたが、これから先まで頼むのは違う気がした。
捨てるより、もとの店へ返したい。そう連絡すると、店主は「料理に使えるなら」と答えた。感傷の入る隙間がなくて助かった。
外出の日、結菜はホームセンターで新しい土を一袋だけ買った。鉢ごと渡すには、表面に白い黴が出ていたからだ。重い袋は友人が持とうとしたが、結菜は鉢だけを両腕で抱えた。葉に触れると、青い匂いが指へ移った。
自宅のベランダへ椅子を出し、古い土を新聞紙の上へ落とす。根は鉢の形に丸く回っていた。少しほぐすたび、細い根が切れる。結菜はどこまで崩してよいか分からず、スマートフォンで調べた。病気の説明より、植え替えの説明のほうが曖昧だった。
新しい土を半分入れ、根を中央へ置く。周囲へ土を足し、指で押す。押しすぎると空気がなくなる。軽すぎると苗が傾く。その加減に集中している間、友人は何も話さず、じょうろへ水を汲んだ。
カフェまでは同じ建物の階段を一つ下りるだけだった。店内は開店前で、椅子がテーブルへ上げられている。店主は窓際を空け、古い受け皿を一枚置いて待っていた。朝の光がそこだけ四角く入り、椅子の脚の影が鉢の置き場所を避けていた。
「ずいぶん大きくしたね」
「勝手に大きくなりました」
店主は葉を一枚ちぎらず、鉢の向きを見た。結菜は日当たりのよかった側へ、細い木札を挿した。裏に「乾いたら水」とだけ書いてある。店主なら、それ以上の説明はいらない。
水を注ぐと、新しい土が少し沈んだ。結菜は指先でくぼみを埋め、倒れていた茎を窓の方向へ起こした。
鉢を受け皿の中央へ置くと、バジルの葉がガラスに触れず、まっすぐ収まった。