管理人室の合鍵
宇津木実は、築四十年のマンションで住み込みの管理人をしている。
朝はごみ置き場を掃き、昼は切れた電球を替え、夜は住人の「鍵をなくした」に呼ばれる。自分の部屋へ戻っても、腰の鍵束が鳴った気がして目を覚ますことがあった。
その雉猫は、毎晩ちがう扉の前に座っていた。
二〇三号室の前では、買い物帰りの老婦人を待ち、三〇一号室の前では、塾から戻る少年へ頭を擦りつける。誰の猫かと聞けば、全員が「うちじゃない」と言う。
それでも猫は、住人が鍵を開けるのを見届けると次の階へ移った。
「お前も巡回か」
実が声をかけると、猫は腰の鍵束へ鼻を寄せた。
そこで名前を「鍵」にした。
鍵は管理人室へも来たが、中には入らなかった。開いた扉の敷居に座り、実が夕飯を食べ終えるまで廊下を見張る。
「遠慮深いのか、信用がないのか」
実が焼き魚を食べながら言うと、鍵はゆっくり瞬きをした。
冬の夜、四階の給水管から水が漏れた。
業者が帰ったのは午前二時。濡れた床を拭き終え、実が階段へ座り込むと、鍵が隣へ来た。猫は何もせず、冷えた作業着へ体を押しつける。
実は鍵束を外し、膝の上へ置いた。
「今日はもう、誰も呼ぶなよ」
鍵はその上へ前足を重ねた。金属の音が止まった。
管理人室へ戻ると、実は初めて扉を閉めずにいた。
鍵はしばらく敷居で迷い、やがて一歩だけ入った。畳を嗅ぎ、湯沸かし器を見上げ、押入れの前を確かめる。最後に実の座布団へ丸くなった。
「そこは俺のだ」
言いながら、別の座布団を出す気にはならなかった。
翌朝、住人たちへ飼い主を探していると知らせると、皆が口々に「管理人さんの猫でしょう」と笑った。
実は否定したが、鍵は管理人室の窓辺で、まるで以前から住んでいたように毛づくろいをしていた。
健康診断と手続きを済ませ、首輪に小さな札をつけた。
住所はマンション名と管理人室。電話番号は実の携帯。
鍵そのものは、猫には必要ない。
夜、最後の巡回を終えると、管理人室の灯りが廊下へ細く漏れていた。扉の向こうから鍵が鳴き、腰の鍵束ではない音で実を迎える。
湯沸かし器から立つ番茶の香りと、日に干した座布団の匂いが、古い部屋を静かに温めていた。