給食室の契約書
榛名井沙々良は、婚約者の桐生谷智怜から、学校給食室で別れを告げられた。
「瑞季乃さんは高級レストラン一族の令嬢だ。君は毎日、子ども向けの薄味を作っているだけだろ」
藤堂原瑞季乃は、指先で白衣の袖を払う。
「智怜さんにはホテル業界で上へ行ってもらいます。給食のおばさんと家庭を作るより、私の家と組むほうが有利ですから」
沙々良は管理栄養士だった。給料も服装も地味で、婚約中も食品会社の株や家の資産について話したことがない。
「明日の試食会、二人とも来るのでしょう?」
智怜は胸を張った。
「僕が勤めるホテルの全国宴会メニューを決める。瑞季乃さんの一族が受注する予定だ」
翌日、ホテル本部の役員、自治体、海外航空会社の担当者が集まった。
最初に紹介された提案者は、沙々良だった。
榛名井家は、農場、食品加工、レストランを世界展開する企業グループの創業家。沙々良は株式を相続した筆頭株主であり、低アレルゲン食の開発責任者でもあった。学校給食室で働いていたのは、子どもが本当に食べる味と、現場の負担を確かめるためだった。
彼女の献立は、ホテル宴会、国際線機内食、病院食へ共通利用できる。初年度契約額は六百億円。特許使用料は沙々良本人へ入るが、彼女は一部を学校給食の無償化へ回すと発表した。
瑞季乃が立ち上がる。
「うちのレストランのほうが格式は上です」
審査役が資料を閉じた。
「藤堂原家が経営するのは、一店舗のフランチャイズです。本部の許可なく“グループ後継者”を名乗り、仕入れ実績も水増ししていました。審査対象外です」
智怜の顔色が変わる。彼は瑞季乃の受注を前提に社内情報を渡しており、昇進審査から外されることになった。
「沙々良、君が筆頭株主なら、僕との結婚はホテルにも利益がある」
「利益で婚約者を替えた人と、長期契約は結べないわ」
役員が全国採用の契約書へ署名する。給食室で子どもたちが食べていた同じスープが、銀の器で試食者へ配られた。
六百億円の契約額が表示された瞬間、智怜が“薄味”と見下した一杯は世界へ広がり、条件が良いと思った令嬢の看板だけが剥がれ落ちた。