緑の空を提出する
猪俣悠里は、空を青く塗るのが得意だった。
子ども向け学習アプリの挿絵を描き始めて五年。青空は明るく、雲は丸く、人物は親しみやすい笑顔にする。修正が少ない絵を描けば、仕事は早く終わる。学生時代には奇妙な色ばかり使っていたが、「分かりにくい」と言われるうち、正しい配色だけが残った。最近は自由制作の画面を開いても、見本のような空しか描けない。学生時代、夜を橙色、肌を水色で描いた卒業制作は、押し入れの奥に伏せたままだった。好きだった配色まで、未熟だった自分と一緒にしまい込んでいた。
歯科医院の待合室で、診察を待ちながら次のラフを直していると、向かいの机で女の子が絵を描き始めた。美羽、八歳。空は濃い緑、木は桃色、太陽は灰色だった。
「空、緑なんだね」と悠里が言う。
「今日は青が休み」
美羽は青いクレヨンを箱の中で横に寝かせ、ティッシュを一枚かけていた。
「病気?」
「使われすぎ。ずっと空やってるから」
悠里は笑った。美羽は彼女のタブレットを覗き、同じ青空が並ぶ画面を見て、青いクレヨンへもう一枚ティッシュを足した。
「おねえさんも、一色休ませて」
「これは仕事だから、分かりやすくないといけないの」
「緑も見えるよ」
それだけ言うと、美羽は歯科助手に呼ばれ、灰色の太陽を塗り残したまま診察室へ入っていった。
悠里の画面には、三案とも同じ青が使われていた。発注書には「子どもが想像を広げられる森」とある。安全な絵を出せば通るだろう。けれど、想像を広げるはずの森で、空だけは休めない理由が分からなくなった。
診察を終えた美羽は、緑の空の絵を折らずに抱えて帰った。受付の大人が『不思議な色ね』と言っても、青へ塗り直そうとはしなかった。悠里の発注画面には『安心感』『標準色』という注記が並んでいたが、『青であること』とはどこにも書かれていなかった。
帰宅後、悠里は四案目を作った。木々の隙間に、深い緑の空を置く。人物の表情も、笑顔ではなく、何かを見つけた瞬間の丸い目にした。
四案目を拡大すると、緑の塗りに筆圧のむらが見えた。悠里は均一に直しかけたが、そのむらが木漏れ日のようにも見え、修正履歴を閉じた。
送信画面で一度止まり、いつもの三案を削除する。
悠里は「別案です」と書き、緑の空だけを添付した。