美術館の透明傘
小夜川泰成が美術館を出ようとすると、外は激しい雨だった。
入口の傘立てに、自分の黒い傘がない。
似た傘ばかり並ぶ中、誰かが間違えて持っていったらしい。
閉館時刻まであと十分。
受付の職員が、忘れ物の透明傘を貸してくれることになった。
その手続きを待つ間、泰成は玄関ホールのベンチへ座った。
隣には、制服姿の少女がスケッチブックを抱えている。
「傘、なくなったんですか」
「たぶん、別の黒い傘になって帰ってくる」
「傘って見分けにくいですね」
「人間より?」
少女は少し考え、「人間は顔があるから」と答えた。
泰成は今日、企画展を一周したが、作品の名前をほとんど覚えていない。
少女は一枚の絵だけを三十分見ていたという。
「どんな絵?」
「空の椅子と、濡れた窓」
「地味ですね」
「雨の日に見ると、誰かが戻ってきそうでした」
ホールの大窓にも雨粒が流れていた。
外のベンチは誰も座らず、濡れて光っている。
少女はスケッチブックを開き、絵の椅子ではなく、美術館入口の傘立てを描いていた。
「透明傘ばかりで難しい」
「全部同じに見える」
「でも、曲がり方が違います」
よく見ると、持ち手の白さ、骨の本数、畳み方が少しずつ違った。
受付から温かい紙コップの茶を二つ渡された。
閉館まで残った客へのサービスだという。
緑茶の湯気と、濡れたコートの匂いが混じる。
「美術館、よく来るの?」
泰成が訊く。
「一人で来ます。友達とだと、同じ速さで見ないといけないから」
「今日は待たせる人がいない」
「でも、雨に待たされてます」
少女は笑った。
やがて雨が弱まり、透明傘が届いた。
少女も家からの迎えを待たず、折り畳み傘を開いた。
入口で別れ、名前は訊かなかった。
透明傘を通して見る町は、少し青く明るかった。
水たまりへ、美術館の白い壁と空のベンチが映っている。
泰成はすぐ駅へ行かず、傘立ての形を振り返った。
黒い傘を失った日なのに、透明な骨の曲がり方をいくつも覚えている。
家へ帰ると、ポケットの中に紙コップの緑茶の香りがわずかに残っていた。
誰かが間違えて持っていった傘も、どこかで同じ雨をしのいでいれば、それでよい気がした。