聖狼が聞いた笛

月狩りの夜会で、神殿の聖狼が突然、聖女サビーナへ飛びかかった。

 護衛に押さえられた白銀の狼は牙を剥き、サビーナの裾を裂いている。狼の額には、ルーンベル家が得意とする獣使いの紋様が光っていた。

「ヴィオラ様が操ったのです」

 サビーナの声に、王弟ユリウスは剣を抜いた。

「聖獣を悪用する女を妃にはできない。婚約を破棄し、魔力を封じる」

 ヴィオラは狼の瞳を見た。怒りではなく、命令へ抗う苦しさがあった。幼いころから獣舎へ通い、噛まれた手でさえ叱らず包帯を巻いてきた。その時間を、ユリウスは一度の紋様だけで悪意へ塗り替えたのだ。彼女は泣かず、狼へ近づこうともせず、ただ一人を呼んだ。

「辺境公子タデウス。首輪の記録石をお願いします」

 長身のタデウスは護衛を下がらせ、狼の首輪から青い石を外した。聖狼の記録石は、最後に受けた命令音を一度だけ再生する。

 広間へ鋭い笛音が響いた。

 続いて石の中に、唇へ銀笛を当てるサビーナの横顔が映る。笛の震えも、命令した時刻も、その一つの記録石に残っていた。命令は明瞭だった。

「私へ飛びかかりなさい。裾だけを噛んで」

 サビーナの顔から色が消える。広間の誰も、もうヴィオラの家紋を見てはいなかった。タデウスは石を首輪へ戻した。

「狼は命令に従った。人間より正直だ」

 それだけ告げると、彼はヴィオラの判断を待った。

 ユリウスは剣を鞘へ収め、何事もなかったように笑う。

「聖女は君の愛を試したのかもしれない。ヴィオラ、封印命令も婚約破棄も取り消す。さあ、私の隣へ」

「試されたのは、私の愛ではございません」

 ヴィオラは首を振った。

「殿下が、証拠もなく私を封じられるかどうかです。そして結果は、よく分かりました」

 タデウスが獣皮の手袋を外し、手を差し出す。

「北境には、聖獣を道具にしない獣使いが必要だ。来るなら、狼も民もあなたの命令ではなく、あなたを選ぶ」

 ヴィオラはユリウスへ背を向け、静かになった聖狼の前を通り、タデウスの手を取った。