胸郭に春は戻らない
療養院の窓を、死蛾の群れが黒く塞いだ。
あれに鱗粉を吸われた患者は、傷口から花を咲かせて死ぬ。寝台は三十。歩ける者は五人しかいない。
ネブラは衣を脱ぎ、胸骨を左右へ開いた。肋骨の内側には蜂の巣があり、金色の小蜂が無数に眠っている。蜂を放てば死蛾を喰い尽くせる。ただし群れを一度起こすたび、彼女の感情が一つ、蜜へ変わって巣に蓄えられる。
最初に恐怖を与えた。
蜂が窓の隙間から噴き出し、死蛾の先陣を裂いた。ネブラはもう、黒い羽音を怖いと思わなかった。
次に嫌悪を蜜へした。床を這う幼虫を素手で潰しても、何も感じない。
三度目は怒りだった。療養院へ死蛾を放った領主の紋章を見ても、胸は静かなままだった。
それでも群れは減らない。天井が鱗粉で白くなり、患者たちの皮膚に小さな蕾が浮いた。
寝台の下から、クイナが顔を出した。片脚を失った少女で、毎朝ネブラの巣へ野の花を差してくれる。
「次は何をあげるの?」
「喜び」
蜂が四度目に飛び立った。
死蛾が半分まで減る。だが春の日にクイナから花をもらった記憶を思い出しても、ネブラの口元は動かなくなった。
群れの女王が胸の奥で震えた。最後の大群を起こすには、もっと濃い蜜が必要だ。
愛情。
それを与えれば、なぜ人を守るのか分からなくなる。
死蛾が寝台へ降り始めた。クイナの頬に一匹が止まり、口吻を伸ばす。
ネブラは少女を抱き寄せ、胸の巣へ最後の感情を注いだ。
甘い蜜が溢れ、蜂の群れが金色の竜巻となった。窓も天井も埋め尽くし、死蛾を一匹残らず喰らう。夜明けには、床へ黒い羽だけが積もっていた。
患者たちは助かった。
クイナが笑いながらネブラへ花を差し出した。
「春になったら、また摘んでくるね」
ネブラは花を見た。色は分かる。香りも分かる。少女が大切だったという記憶も残っている。
けれど胸の空洞には、何も動かなかった。
「どうして泣いているの」
彼女が尋ねると、クイナは首を振った。
「泣いてるのは、ネブラだよ」
異形の頬を蜜色の涙が伝っていた。身体だけが、失った愛し方を覚えている。
開いた胸郭の中では、最後の蜜を吸った女王蜂が、彼女の心臓と同じ形へ育ち始めていた。