花束が覚える手

花屋に、切り花用の翻訳粉が一袋だけ届いた。

花瓶の水へ溶かすと、花は最後に自分へ触れた人の手について一言だけ話す。

店主は試しに、閉店間際に残った白い花へ使った。

「急いでいた。指が冷たい」

花を選んだ会社員のことらしい。

粉は面白かった。

贈る相手を思い、何度も茎を持ち替えた手。

謝る言葉を練習しながら震えた手。

病室へ持っていく花を、強く握りすぎた手。

ある日、毎週一輪だけ買う老人が来た。

妻を亡くしてから十年、同じ曜日に黄色い花を買う。

店主は、墓へ供えるのだと思っていた。

老人が帰ったあと、床に一本落ちていることに気づいた。

翻訳粉を溶かす。

花は言った。

「手が、離したくないと言っていた」

店主は老人を追いかけた。

角を曲がった先で、老人は若い女性へ花を渡していた。

女性は受け取らず、腕を組んでいる。

娘だった。

老人は再婚へ反対し、十年前から疎遠になっていた。

妻を亡くしたのも同じ頃で、父娘は互いに「もう家族は自分だけだ」と思いながら、会わなかった。

老人は毎週、娘の働く店の前まで来ていた。

花を渡せる日は少なく、多くは持ち帰った。

店主は墓の花だと思い込んでいた。

その日も娘は言った。

「毎週来れば、許すと思ってる?」

老人は答えられない。

店主は花の言葉を伝えようとして、やめた。

手の気持ちを、花に代弁させるべきではない。

「落とし物です」

黄色い花を老人へ渡した。

老人は茎を握った。

「離したくなかった」

唐突に言った。

娘が眉を寄せる。

「お前が選んだ人も、母さんも、家も。全部、自分の手から離れるのが嫌で、ひどいことを言った」

「花を持ってきたら済むの」

「済まない。だから毎週、済まないまま来た」

娘は花を受け取らなかった。

ただ、

「来週は、花じゃなくて母さんの写真を持ってきて」

と言った。

店主は店へ戻り、翻訳粉を棚の奥へしまった。

花が覚えるのは手の温度だけ。

その手が誰を傷つけ、何をやり直したいかまでは、人が話さなければならない。

翌週、老人は花を買わず、写真を持って娘の店へ向かった。

手は空いていた。

だから扉を開けるとき、以前より軽く見えた。