茄子が出汁を吸う夜

日高昂生は、広告代理店で使っていた黒いノートを、居酒屋「朱筆」のカウンターへ置いた。

 明日から、小さな出版社の校正部で働く。求人票の給与は前職より三割低い。肩書きも、コピーライターから校正補助になる。母には「編集の仕事」と説明し、友人には「次の準備期間」と言った。どちらも、校正を選んだと言い切れなかったからだ。

 家賃と奨学金を払えば、今までのように新刊を何冊も買う余裕はなくなる。なのに転職先の編集長は、面接の最後に『本を好きでいられる働き方を作りたい』と言った。その言葉を信じた自分を、昂生はまだ少し疑っている。

 広告の仕事では、短い言葉で人を振り向かせることを求められた。昂生はそれが好きだった。ただ、深夜二時に届く修正と、誰も読まない企画書と、数字が悪ければ消える言葉に疲れた。出版社の試験で誤字を拾っている二時間だけ、呼吸が静かになった。

 店主は揚げ茄子の煮浸しを出した。油から上げた茄子を出汁へ沈めると、じゅわ、と小さな音がした。削り節と醤油の匂いが湯気に混じり、紫の皮はつやを増して、箸で触れるだけで柔らかくへこんだ。

「熱いうちに食べるものじゃないんですか」

「少し置いたほうが入る」

 店主はそう言って、皿を昂生から少し遠ざけた。

 黒いノートには、採用されなかった広告案が百近く残っている。今夜捨てて、明日から赤鉛筆だけを持とうと思っていた。過去の自分に未練があると、新しい仕事へ失礼な気がした。

 だが、校正は言葉を作らない仕事ではない。誰かの言葉が崩れないよう、形を確かめる仕事だ。そう考えると、コピーを書いた日々を隠す必要もなかった。

 昂生は明日の鞄へ黒いノートと赤鉛筆を一緒に入れることにした。自己紹介で「腰掛けです」と笑うのもやめる。給料への不安は残る。いつかまた書きたくなるかもしれない。それでも、今は校正を選んだと言う。

 少し冷めた茄子を噛むと、中にたまった出汁が熱すぎない温度で広がった。生姜の香りが遅れて立ち、油の甘さを静かに切った。