菓子箱をひっくり返す

柚葉の小さな菓子店は、婚約と同時に消えた。大手食品会社の御曹司・蒼士と結ぶ事業婚約の書類に、店名もレシピも譲渡する条項が隠されていたのだ。気づいた頃には看板を奪われ、売上が落ちた責任まで押しつけられ、婚約も破棄された。

閉店した厨房で倒れたはずの柚葉は、契約披露会の長机の前に戻っていた。

金色の菓子箱。砂糖をまぶした薄焼き菓子。蒼士は箱を押し出し、前と同じ言葉で笑う。

「甘い話は、冷めないうちに」

一度目は菓子を一枚食べ、その下の書類へ署名した。今度の柚葉は箱を持ち上げ、くるりと裏返した。

「ええ。焦げる前に底まで確かめましょう」

箱の二重底が外れ、薄い複写紙がテーブルへ落ちた。署名の筆圧を利用し、別の譲渡契約へ同じ名前を写す仕掛けだ。前の人生で、箱を処分した後に知った。

蒼士の秘書・啓悟が青ざめる。

「包装業者のミスです」

「では、なぜ御社の契約番号が印刷されているのですか」

柚葉は菓子箱の底を会場の投影機へ置いた。拡大された文字に、レシピ永久譲渡、商標無償移転、婚約解消時の違約金と並ぶ。祝いの拍手は、冷たいざわめきへ変わった。

蒼士が声を潜める。

「署名さえすれば、店は大きくしてやれる」

「私の店を奪って大きくすることを、成功とは呼びません」

柚葉は正規契約書にも署名せず、持参した一枚の注文票だけを取り出した。前の人生で断った地方百貨店の独立出店依頼だ。今日の午後まで有効だった。

会場にいた百貨店担当者が、その場で判を押す。

「条件が変わらないなら、予定どおり専用区画をお貸しします」

祝いのために集まった取引先の何人かが、蒼士の名札を伏せ、柚葉の注文票へ名刺を置いた。大きな会社に従わなければ商売は終わる。そう思い込ませていただけで、菓子を選ぶ客は目の前にいた。

蒼士の会社から届くはずだった《商標移転完了》の通知は鳴らない。代わりに柚葉の受注端末が軽やかに音を立てた。

《新店舗契約:成立》

金色の箱からこぼれた菓子を一枚拾い、柚葉は自分の店の名前で包み直した。