行先表示は消えない

 誰も乗っていない車両でも、行先表示は明るかった。

 郁はドアの上に流れる橙色の文字を見上げた。終点まであと四駅。次の駅名。乗換案内。足元にご注意ください。文字は一定の速さで右から左へ進み、消えてはまた現れる。

 終電へ間に合うため、会社から駅まで走った。提出した資料の数字を、帰り際に上司が一つ直した。郁が三日かけた表は、会議では上司の説明として使われる。間違いではない。仕事とはそういうものだと分かっている。それでも、自分の一日が誰の記憶にも残らない気がした。

 車輪が回り、空調が低く唸る。窓には蛍光灯だけが長く映る。駅へ停まるたび、表示の文字は一度止まり、発車するとまた流れた。郁が見ていなくても、次の駅名は同じ速さで現れ続けた。

 向かいのホームでは、清掃員が空のごみ箱へ新しい袋をかけていた。袋は送風でふくらみ、手で押さえられると静かになった。誰も使わなくなった時間にも、朝の準備だけは進んでいる。

 二駅目で車掌が車内へ入ってきた。座席の下と網棚を見ながら、ゆっくり通路を歩く。郁の前を通るとき、「本日もご利用ありがとうございました」と小さく言った。個人へ向けた挨拶ではない。毎晩繰り返している確認の一部だろう。

 郁は反射的に頭を下げた。

 車掌は先の車両へ移り、連結部の扉が閉まった。すぐに機械の音だけが戻る。けれど、誰も見ていないと思っていた自分の乗車も、車掌にとっては最後に確認する一席だった。

 次の駅で、行先表示が一瞬消えた。黒い画面に郁の顔が映り、すぐ「終点」の二文字が灯った。消えたのは故障ではなく、表示が切り替わるための短い空白だった。

 郁は鞄から社員証を出し、裏返した。明日の朝になれば、また首から下げる。今日の仕事が誰の名前で語られても、郁が作った時間までなくなるわけではない。

 終点が近づき、モーターの回転がゆるむ。行先表示は最後まで消えず、降車を促す文字へ変わった。

 郁は立ち上がり、座席を一度振り返った。何も残していない。それでよかった。今夜、自分の一日を証明するものがなくても、家までの道を一人で帰るくらいはできそうだった。