触れて読む時刻

 神谷柚稀が指先時計房へ持ち込んだのは、蓋を開けて針に触れられる腕時計だった。

 文字盤の十二、三、六、九には太い突起があり、ほかの時刻には小さな点が並ぶ。柚稀は視野が狭くなってから、この時計を使っている。今日は、緩くなった蓋の蝶番を直してもらいに来た。

 来月から、新しい会社で働くことが決まっている。採用面接では、画面を拡大すれば事務作業に支障はないとだけ伝えた。だが入社案内は淡い灰色の細字で届き、研修資料も同じ形式らしい。

 高コントラストの資料や読み上げ可能なデータを頼めばいい。分かっているのに、入社前から面倒な人と思われるのが怖く、担当者へのメールを下書きのままにしていた。

 これまで何度も、読めない資料を自分の準備不足として処理してきた。拡大に時間がかかっても、周囲を待たせないよう先に出社し、見えているふりをした。

 店主は時計の小さなねじを外し、新しい蝶番へ替えた。蓋を閉め、指で縁を押す。かちりと音がして隙間が消える。次に目を閉じたまま蓋を開け、針へ触れた。短針が五と六の間、長針が二を指しているのを確認し、時刻を読み上げる。五時十分。壁の時刻と合っていた。

 店主は修理票を書くため、細い黒ペンを手に取った。途中で柚稀の時計を見て、引き出しから太いフェルトペンへ替える。文字を普段の倍ほど大きくし、白い紙を黒い下敷きへ載せて差し出した。

 頼まれたわけではない所作だった。説明もなかった。

 柚稀は修理票の〈確認〉へ署名し、そのままスマートフォンを開いた。会社への下書きに、必要なことを箇条書きで足す。

〈資料は黒字と白地などコントラストの高い形式〉

〈画像化せず、読み上げ可能なデータ〉

〈座席は画面照明を調整できる場所〉

 最後に〈ご相談できますでしょうか〉〈ご準備をお願いします〉へ直して送信した。

 店主は時計を布で磨いたが、蓋の中央にある細かな擦り傷は消さなかった。光ではなく、指で探す場所だからだ。

 柚稀は腕へ留め、蓋を閉じた。時刻は見えない。それでも指先で開けば、今がどこにあるか分かった。