訳されなかった一行
深町理世の評価面談には、納期遅延の理由を書く欄があった。
翻訳会社の進行担当になって九か月。医療機器の取扱説明書を、締切直前に差し止めたことで、顧客から厳しい連絡が来ている。
「一行のために、二百ページを止めた。質問を減らすのも能力だよ」
課長が示した英語原稿には、警告文は見当たらない。翻訳を担当した後輩も、抽出された原文をすべて訳していた。
理世は紙の最終見本を開いた。図の下、薄い灰色の枠に〈再使用しないこと〉とある。小さな警告三角形の横に置かれ、器具を洗えば再び使えるようにも読める図だった。海外版では、その一行だけが誤使用を止めていた。元データでは文字が画像の背面に置かれ、翻訳支援ソフトへ取り込まれていなかった。画面上では見えず、印刷すると現れる一行だった。
そのまま納品すれば、日本語版だけ再使用禁止の警告が消える。顧客は印刷所の予約を理由に正午までの納品を求めていたが、理世は、予約を守るために警告を空白にはできなかった。
「訳者の見落としではありません。取り込み後の文字数だけを照合する手順が原因です」
理世は後輩へ、謝罪メールを書く前に図版の比較を頼んでいた。自分は全ページを画像として並べ、原文にあるのに訳文へない枠を機械的に拾う確認票を作った。二百ページを目で読むより速く、次の案件でも使える。試すと、今回の一行のほか、単位記号が一つ抜けていた箇所も見つかった。理世は二か所を一覧にし、顧客へ印刷予約の変更も含めて説明した。
課長は面談票へ〈慎重すぎる〉と書いたまま、「希望していた文芸翻訳チームへの推薦は難しい」と言った。
理世は少しだけ迷った。物語を訳す仕事に憧れて入社した。それでも、今日守った一行は、誰かが読む前に命へ届く文章だった。
募集一覧から〈高リスク文書QA〉を選ぶ。次の案件は人工呼吸器の保守手順書。納期も責任も重い。
理世は後輩の名前を共同改善者に入れ、配属希望と次案件の受諾を同時に送信した。