読みかけのまま海へ
真砂はフェリーの甲板で、潮風にめくれる本を両手で押さえた。紙には塩の匂いが移り、頁の角が小さな波のように反っていた。島を巡る旅の随筆集。高校を卒業する春、柊生から借りたまま十五年近く経っている。
二人が暮らした島には、信号が一つしかなかった。三年生の夏、真砂は本土の大学へ進むと決め、柊生は父の漁船を継ぐと言った。放課後、二人は防波堤に座り、借りた本を一章ずつ声に出して読んだ。
「外へ出たら、島なんてすぐ忘れるよ」
柊生が笑った。
「忘れないよ」
「じゃあ、帰ってくる?」
真砂は答えなかった。帰る約束をしたら、出ていく勇気が鈍る気がした。
出発の日、港で本を返そうとすると、柊生は「最後まで読んでからでいい」と言った。真砂は、船が出る前に告白されるのではないかと少し期待していた。けれど彼が言ったのは、「島を嫌いなまま出るなよ」だった。
真砂は腹を立てた。嫌いだから出るのではない。好きだけれど、ここだけが世界になるのが怖かったのだ。その気持ちを説明できず、本を抱えて船に乗った。
都会で就職し、転職し、結婚し、離婚した。今度は瀬戸内の別の港町で働くことが決まっている。帰省のたびに柊生とは時間が合わず、会わないまま歳月が過ぎた。随筆集は最終章だけ読めなかった。そこに「帰る」という答えが書かれている気がしたからだ。
父の法事を終えた帰りの船で、真砂はようやく最終章を開いた。旅人は故郷へ戻らず、別の港で暮らし始めていた。最後の一文には、帰る場所は一つでなくていい、とあった。
港の待合所には、柊生が設けた小さな交換本棚があった。漁協の仕事の傍ら、島を訪れる人のために始めたらしい。真砂は随筆集を棚へ戻し、貸し手の欄に柊生、返した人の欄に自分の名を書いた。
その下へ、短く付け足した。
〈島を好きなまま、また出ていきます〉
出航の汽笛が鳴った。真砂は振り返ったが、誰かを待つためではない。島の輪郭を目に入れたまま、自分がこれから暮らす港の方角へ顔を向けた。