課長が閉じた匿名の窓
糸川真朱は、夜になるとファンアカウント〈薄明の観測所〉で、俳優・槙野周の芝居を分析する。声の高さ、立つ位置、台詞の前に置く呼吸。感情を叫ぶ投稿より、舞台上の変化を記録する文章が好きだった。フォロワーは三万人いるが、本名も勤務先も明かしていない。
広報課の会議で、新商品の文章案を検討していたとき、課長の小鹿野志津がノートパソコンを開いた。検索欄の候補に〈薄明の観測所 槙野周 第三幕〉と表示される。
真朱の背中が固まった。昨夜投稿した記事の題だ。
隣の同僚が画面を覗こうとした瞬間、志津はブラウザを閉じた。
「私用の検索履歴でした。企画書に戻ります」
会議後、志津は真朱だけを残した。
「あなたが観測所だと、文章の癖で気づきました」
真朱は否定する言葉を探した。社内報で使った〈静かな場面ほど、観客の呼吸が揃う〉という表現を、アカウントでも書いたことがある。
「会社には言わないでください」
「もちろん。私がフォローしていることも、言わなくていい」
志津はスマホを見せず、口頭で答えた。彼女も槙野周のファンで、観劇後に真朱の記事を読むのが習慣だという。
嬉しいはずなのに、真朱は怖かった。上司に過去の投稿を読まれている。仕事への愚痴は書かないが、泣いた夜も、救われた台詞も残っている。
志津はその表情を見て、メモを一枚差し出した。
〈社内報と同じ比喩が三か所。劇場写真の窓に会社の入館証が反射〉
「推測できた理由です。消すかどうかはあなたが決めて。ただ、身元を守りたいなら直したほうがいい」
真朱は昼休みに写真を差し替え、比喩は一つだけ残した。文章の癖まで消せば、自分の声がなくなる気がしたからだ。プロフィールには〈個人の観劇記録。所属先とは無関係〉と加えた。
その夜、新しい記事を投稿する前に指が止まった。アカウントを消せば安全になる。けれど志津が守ったのは、正体だけではなく、書く場所だった。
真朱は公開ボタンを押した。数分後、見慣れた無地のアイコンから「いいね」が一つ付く。
翌朝、二人はその話をしなかった。会議では課長と部下のまま、匿名の窓だけが、閉じられずに残っていた。