赤いウインナーを一本
久米川沙耶は、オーケストラの採用試験会場でナポリタン弁当を開いた。母は演奏会の日だけ、赤いウインナーを一本、蛸の形にして入れる。今日のそれには脚が七本しかなかった。
沙耶は試験を受けないつもりだった。音大を出て三年、臨時の仕事をつなぎながら、母には次こそ正団員になると言い続けた。けれど半年前から、舞台の照明を学ぶ夜間学校へ通っている。弾く人ではなく、音が届く場所を作る人になりたい。
母は、沙耶の楽器のために車を売った。毎朝の練習にも付き合った。その時間を無駄にしたと思わせるのが怖くて、進路を変えたことを言えない。恩を返すには、好きではなくなった道でも成功するしかないと思っていた。
ナポリタンから、炒めたケチャップの甘い香りがした。麺は冷えて少し固まり、箸で持ち上げるとまとまってついてきた。沙耶はウインナーを避け、端から麺を食べた。
母は蛸の脚を必ず八本にした。幼い沙耶が本番前に数え、全部あればうまく弾けると信じていたからだ。七本の今日は、母の手元が狂っただけだろう。それでも、不完全なまま箱へ入れたことが、妙に救いに見えた。
麺を食べ終え、赤い一本を箸でつまむ。薄い皮を噛むと小さく弾けた。脚を一本ずつ食べ、最後に丸い胴だけが残る。八本目がないからといって、蛸でなくなるわけではない。演奏家にならないからといって、母と積み上げた年月が別のものになるわけでもない。
沙耶は胴を一口で食べた。試験票を二つに折り、空いた弁当箱の底へ入れる。代わりに、夜間学校の学生証を上へ置いた。
会場を出るとき、試験室から調弦の音が聞こえた。沙耶は立ち止まらなかった。
八本そろうまで切り直さなかった母の朝にも、きっと時間がなかった。完璧な応援だけを受け取ってきたのではない。焦った朝や言い争った夜も含めて、母は沙耶の音を支えた。その支えを、別の舞台へ持っていくことまで禁止されたわけではなかった。
帰宅したら、洗っていない箱を母へ渡す。ケチャップの赤が残っているうちに、今日弾かなかったことを話すつもりだった。