赤い時間割

桑折紀里の教室では、怒る子どもはいなかった。

児童の暴力といじめを防ぐため、登校中だけ感情チップが苛立ちを弱める。教師は叱責せず、生徒は口論せず、廊下には「穏やかな学び」の標語が並んでいた。

紀里も制度を歓迎していた。以前の学校で、怒鳴り合いを止めようとして腕を折られた経験がある。静かな教室なら、誰も傷つかないはずだった。

けれど四年生の冬、教室の金魚が毎週一匹ずつ死んだ。餌の袋に洗剤を混ぜた者がいるらしい。監視AIは映像に決定的な証拠がないとして、事故処理を勧めた。

金魚係の芽依里は、空になった水槽を見ても泣かなかった。チップが悲しみと怒りを抑えていたからだ。代わりに、給食を残し、ノートの端を細かく破るようになった。

紀里が理由を尋ねると、芽依里は平坦な声で言った。

「犯人を知ってます。でも言うと空気を乱すから、黙るのが高得点です」

学級AIの協調性評価では、告発は対立行動として減点される。犯人の男子は、芽依里の反応が面白くなくなり、次は彼女の上履きを捨てていた。

紀里は職員会議で制度の一時解除を求めた。校長は、怒りを戻せば暴力の責任を負えるのかと聞いた。紀里には答えられなかった。怒りが安全だとは思わない。それでも、痛みを感じないことを安全とは呼べなかった。

翌朝、紀里は時間割の最後に赤い紙を貼った。

〈六時間目 怒ってよい時間〉

保護者の許可もAIの承認もない。教室のチップを十分だけ停止すると、最初は誰も何も言わなかった。やがて芽依里が机を叩いた。

「金魚を殺したの、最低だ!」

声に驚き、本人が泣いた。犯人の男子も顔を赤くし、「魚ぐらいで」と言い返した。別の児童が「ぐらいじゃない」と立ち上がり、教室はたちまち騒然となった。

紀里は叫び声を止めなかった。ただ、殴らないこと、相手の身体ではなく行為を責めることを何度も確認した。

十分後、男子は洗剤を入れたと認めた。芽依里が困る顔を見たかったのに、何をしても無表情なので、行為を大きくしたという。

紀里は処分を受け、別の学校へ移された。しかし赤い時間割は、生徒たちが自治会へ提出した要望書に残った。翌年度から、学校には週一回、感情制御を弱めて対話する時間ができた。

名称は「対立学習」。子どもたちは今も、赤い時間と呼ぶ。

紀里は新しい教室の黒板にも、細い赤線を一本引いている。怒りを越えてはいけない境界ではない。怒りをなかったことにしないための、入口の線だった。