赤ん坊の騒音債

久我山詠美の娘は、生後三か月で百二十点の借金を作った。

集合住宅では、泣き声一分ごとに保護者の信用点が減る。睡眠を妨げられた住民の生産性を補償するためだ。詠美は壁に吸音材を貼り、窓を二重にし、泣き始める前にミルクを用意した。

それでも赤ん坊は泣いた。腹が減っていなくても、暑くなくても、抱いていても泣いた。

《騒音債務が規定値を超えました。育児適性を再審査します》

端末に表示された夜、詠美は娘の口元へ静音マスクを近づけた。赤ん坊の声を逆位相の音で消す器具だった。装着すると部屋は静かになったが、娘は目を見開き、声の出ない泣き方で震えた。

詠美はすぐに外した。

「ごめん。泣いていいよ」

その言葉を待っていたように、娘は大声を上げた。警告灯が赤く点滅した。翌朝には退去命令が届くだろう。

すると、隣室の端末から申告が入った。

《騒音発生源:五〇二号室》

詠美の部屋は五〇三号室だった。向かいの老婦人まで、自室が発生源だと申告した。上階の学生、下階の夜勤夫婦、廊下の端の無口な男性も続いた。

《同一騒音に複数の発生源申告。責任を均等配分します》

一人あたりの減点は二点になった。

翌日、詠美が菓子を持って謝りに回ると、老婦人は言った。

「昔は赤ん坊が泣いたら、壁を叩いて“元気だね”って返したものよ」

夜、娘がまた泣いた。今度は壁の向こうから、こん、こん、と二度音がした。上からも、下からも続いた。責める音ではなく、ここにいるという合図だった。

住民たちは交代で買い物を手伝い、詠美が眠る一時間だけ娘を抱いた。全員の点は少しずつ下がったが、誰も申告を取り消さなかった。

一年後、住宅AIは棟全体を「相互隠蔽傾向あり」と低評価区へ降格した。家賃補助も減った。

それでも詠美は引っ越さなかった。娘が最初に覚えた言葉が「ママ」ではなく、壁を叩く真似の「こんこん」だったからだ。

信用は減点で分けられたが、孤独もまた、住人たちの間で小さく分けられていた。