辞書から消えた一点
王立書庫の地下で、文字魔族エノは一冊の黒い辞書につながれていた。
彼女の舌には古代語の呪字が刻まれ、辞書の所有者が指した文章を声に出す。拒めば舌が裂ける。戦の密約も、死者の遺言も、彼女は意味を理解したまま読み上げさせられ、聞かなかったふりをすることさえ許されなかった。大司教サンテスは禁書を解読させたあと、用済みになった辞書ごと書庫員マティアへ譲った。
「表紙に自分の名を書けば、どんな秘密も読ませられるぞ」
マティアは羽根ペンを持ったまま、辞書を開いた。最初の頁に所有契約、最後の頁に命令語。途中にはエノが訳した何千もの言葉があるのに、彼女自身の名はどこにもなかった。
「この契約を読める?」
「命じられれば」
「頼む。断ってもいい」
「……その言い方は、辞書にありません」
エノは戸惑いながら読んだ。
古代語では、所有者を示す語と、書物の持ち主を示す語が同じ形をしている。ただし人へ用いるときだけ、最後に小さな点を打つ。サンテスはその点を後から加え、辞書の所有をエノの所有へすり替えていた。
マティアは自分の名を書かなかった。
消し砂を一粒、偽りの点へ落とす。
点が消えた瞬間、文章の意味は「この辞書を所有する」に戻った。エノの舌から黒い呪字が剥がれ、乾いた葉のように頁の上へ散る。
大司教が仕込んだ命令音が書庫に響いた。
『禁書を焼き、書庫員を殺せ』
エノは火の魔法を指先に灯した。だが燃やしたのは命令語の頁だけだった。
「今のは、誰の指示?」
「私の校正です」
声にしても舌は裂けなかった。エノはその当たり前に驚き、同じ言葉をもう一度、今度は少し大きく繰り返した。
彼女は地下の出口へ向かう。マティアは黒い辞書だけを抱え、呼び止めなかった。
三日後、禁書解読の会議でマティアは翻訳者不在を責められていた。扉が開き、エノが旅支度で戻ってくる。
机へ短剣を置き、代わりに新しい赤い筆を取った。
「所有者欄は空白のままですね」
「辞書の持ち主には私の名を書いた」
「では、その下に一行ください」
エノは自分で記した。
――共同翻訳者、エノ。契約期間は本人が飽きるまで。
舌ではなく筆で選んだ名前が、黒い頁の最初の文字になった。