返却口の向こうの駅
砂生文乃は、小説の新人賞で最終候補から落ちたあと、古い駅舎の残る町へ一人で来た。
編集者からは「次作を待っています」と書かれていた。優しい言葉ほど、今すぐ書けと言われているようで苦しかった。
宿へ入る前、駅前の小さな古書店へ寄った。
店番の男性は、文乃が何も買わず棚の間を二周しても声をかけなかった。
やがて文乃は、昔の時刻表を一冊手に取った。
「列車に乗る本ですか」
「乗らない列車を見る本です」
店番は答えた。
店の奥には、使われなくなった駅の返却箱が置かれていた。
図書館だった時代の名残で、今は客が読み終えた本を入れ、別の誰かが自由に持ち帰る棚になっている。
「売らないんですか」
「誰かが置いた本は、次の人まで休憩中です」
文乃は鞄から、自分の落選作の原稿を出しかけた。
さすがに置けないと思い、代わりに旅用に持ってきた文庫本を一冊入れた。
何度も読んだ短編集だった。
「手放せるんですね」
店番が言う。
「内容は覚えているので」
「では、本は役目を果たした」
夕方、古いホームへ出た。
一時間に一本の列車が来るまで、ベンチで豆大福を食べた。店番が教えてくれた和菓子屋のものだ。
餅は柔らかく、赤えんどうの塩気が餡の甘さを引き締める。
向かいの山から、薪を燃やす匂いが流れてきた。
隣へ、買い物籠を持った女性が座った。
返却箱から持ってきたらしく、文乃の短編集を膝に載せている。
「これ、好きなの」
女性が独り言のように言った。
「私もです」
「じゃあ、また読めばよかったのに」
「誰かに渡したくなって」
文乃が答えると、女性は表紙を撫でた。
「なら、しばらく借ります」
列車が来て、女性は乗った。
文乃はホームへ残り、走り去る窓を見送った。
自分の文章も、読まれなければ意味がないと思っていた。けれど書き終えた時点で、自分の中では何かの役目を果たしていたのかもしれない。賞は次の行き先を決める一つの時刻表にすぎない。
宿へ戻り、白い便箋を一枚出した。
小説ではなく、今日見た返却箱と豆大福のことを書き始める。
窓の外で終列車の音が遠ざかり、部屋には餡と焙じ茶の香りが残った。
次作になるかは分からない。それでも最初の一行は、古い駅から静かに発車した。