金魚鉢から深呼吸
四十物尊は、深夜ラジオの番組ディレクターをしている。
出演者の声を整え、音楽をつなぎ、午前二時に番組が終わっても、反省点を書き出す。スタジオを出る頃には、誰かの言葉を聞きすぎて、自分の声が薄くなっていた。
ワンルームには、金魚が一匹いる。
祭りでもらって十年生きている赤い和金で、名は一拍。
尊が水槽の前へ座ると、水面へ上がった泡が弾け、その音だけが心の中で言葉になった。
ぷつ。
『遅い』
「生放送だから」
ぷつ。
『腹』
「今から食べる」
ぷつ。
『嘘』
「金魚までそれ言うのか」
一拍の言葉は短い。泡一つにつき一語だからだ。
それでも深夜の部屋では、十分な会話になった。
ある週、番組への感想がほとんど届かなかった。
尊は企画が飽きられたのだと思い、選曲を変え、コーナーを増やし、睡眠を削った。けれど数字は大きく動かない。
帰宅後、水槽の前へ座り込む。
「誰にも届いてないのかな」
一拍は尾を振り、水面へ泡を上げた。
ぷつ。
『水』
ぷつ。
『面』
ぷつ。
『揺』
ぷつ。
『れ』
尊は首を傾げる。
さらに一拍が泳ぎ、泡が続いた。
『ば』
『底』
『も』
『知』
『る』
「水面が揺れれば、底にも分かるって?」
一拍はゆっくり一周した。
尊は机に置いたままの葉書を思い出した。
先週届いた、地方の夜勤警備員からの便りだった。
〈休憩室で一人、毎週聴いています。話さなくても誰かと夜を越している気がします〉
番組では時間が足りず紹介できなかった。けれど、届いていた言葉は確かにあった。
尊は即席の味噌汁を作り、冷凍ごはんを温めた。
湯気に葱と味噌の匂いが混じる。水槽の灯りだけを残し、床へ座って食べる。
「来週、その葉書を読むよ」
ぷつ。
『よ』
ぷつ。
『し』
番組では、葉書を最初に紹介した。
大きな反響はなかった。ただ放送後、同じ警備員から〈今夜も揺れました〉と短いメールが届いた。
尊が帰宅すると、一拍は水草の陰から出てきた。
ぷつ。
『お』
ぷつ。
『か』
そこで泡は止まった。
「続きは明日?」
一拍は口をぱくりと開けた。
水槽の水は青く静かで、味噌汁の残り香だけが部屋を温めていた。尊は返事の続きを待たず、「ただいま」と言った。水面が小さく揺れ、その波紋は底までゆっくり届いていった。