釣れない日の鯖缶
真柴朔也は、月に一度だけ早朝の堤防へ行く。
釣りが好きなのかと訊かれると、少し迷う。魚が釣れなくても、同じ場所へ通っているからだ。
その朝も、海は静かだった。
竿を出し、折り畳み椅子へ座る。餌を替え、棚を変え、二時間待っても浮きは一度も沈まない。
隣の区画には誰もいない。遠くで漁船が低い音を立て、時々、海鳥が水面へ降りた。
朔也は時計を見た。
以前なら、釣れない時間を無駄だと思った。場所を変え、仕掛けを替え、焦って竿を動かした。
けれど一人で来るようになってから、何もしない時間が釣りの半分なのだと分かってきた。
九時になり、竿を置いた。
小さなバーナーへ火をつけ、飯盒に残りごはんを入れる。鯖の味噌煮缶を開け、葱と一緒に温めた。
「魚は釣れないのに、魚を食べる」
自分で言って、少し笑う。
味噌がふつふつし始めると、甘辛い香りが潮風へ混じった。
ごはんへ鯖を載せ、缶の汁を少しかける。熱い身を箸で崩すと、生姜の匂いが立った。
海を見ながら食べる鯖は、家の台所より少し塩辛く感じた。
食後、浮きを眺めたまま珈琲を淹れた。
紙カップへ口をつけると、味噌の甘さのあとに珈琲の苦みが来た。取り合わせはよくないのに、海風の中では妙に落ち着いた。釣り糸が張るたび期待し、すぐ波だと分かる。その小さな繰り返しまで、今日は急かさず受け取れた。
魚が釣れれば嬉しい。釣れなくても、海は何も不足した顔をしない。波は石へ当たり、また戻る。それだけで午前は十分に動いていた。
昼前、仕掛けを上げると、小さな海藻が針へ絡んでいた。
釣果と呼ぶには無理がある。朔也はそれを海へ戻し、竿を畳んだ。
帰り際、堤防を振り返る。
椅子を置いていた場所だけ、コンクリートが少し温まっていた。誰かに成果を見せる必要のない休日は、空のクーラーボックスでも軽かった。
車へ乗ると、上着から潮と鯖味噌の匂いが上がった。
朔也は帰宅後の昼寝を思い浮かべ、窓を少し開けた。釣れない日の海風が、車内へ静かについてきた。