鍵のない部室

吹奏楽部の部長は、退部届を書いていた。

大会前なのに音がまとまらず、後輩は返事をしない。

自分が嫌われているのは分かっていた。

倉庫で見つけた古い演奏会用ケープを羽織ると、音楽室にいる間だけ姿が消えた。

部長は退部届を机へ置き、誰にも見えないまま隅へ立った。

後輩たちが入ってくる。

机の紙を見つけた。

「やっぱり辞めるんだ」

「厳しすぎたもん」

胸が痛んだ。

だが別の部員が言った。

「返事しなかった私たちも悪い」

「返事すると、また指示が増えるから」

「怖かったんだよ」

「でも、あの人、誰より早く来て椅子並べてた」

後輩たちは部長を好きではなかった。

同時に、いなくなれば困ると思っていた。

その矛盾の方が、きれいな感謝より本当らしかった。

一人が退部届を破ろうとした。

別の部員が止めた。

「勝手に残すのも違う。本人に、何が嫌だったか言おう」

「言える?」

「怖い」

「部長も怖いから怒るんじゃない?」

部長は透明なまま、自分が指揮台で声を荒らげた日を思い出した。

失敗が怖いと言えず、後輩の音を責めた。

嫌われているのではなく、嫌われる態度を続けていた。

ケープを脱ぎ、姿を現した。

部員たちが悲鳴を上げた。

「いつから聞いてたんですか」

「厳しすぎた、あたりから」

沈黙。

部長は退部届を取り、

「辞めたい気持ちはまだある。でも、私の嫌なところを先に聞きたい」

と言った。

後輩は遠慮しなかった。

指示が曖昧。

怒ると早口。

自分の失敗を認めない。

褒めるときだけ声が小さい。

部長は全部メモした。

途中で言い訳したくなり、三度口を閉じた。

その代わり、自分も返事をしないことが怖かったと話した。

大会では入賞できなかった。

演奏も完璧ではない。

ただ、曲の途中で音が崩れたとき、部長は怒鳴らず手を上げ、全員で息を合わせ直した。

退部届は、卒業まで机の引き出しに残した。

辞めなかった証明ではない。

いつでも辞められる状態で、もう一度続けることを選んだ日の紙だった。

透明なケープは後輩へ渡さなかった。

本音を聞くために消えるより、見えるまま怖いと言える部室にしたかった。