鏡を伏せて
冬賀澄花は、喫茶「琥珀窓」の化粧室へ立つのを三度やめた。
閉店まで二十分。スマートフォンには、これから会う相手への文が残っている。
「ごめんなさい。少し体調が悪くて」
送れば、初めての約束を断れる。頬にできた赤い吹き出物も、湿気で広がった髪も、見られずに済む。相手はきっと気遣うだろうし、澄花はまた画面の中だけで感じのいい人に戻れる。
店は来週で営業を終える。古本棚の前には、小さな閉店市があり、銀色の手鏡が一枚だけ残っていた。楕円の縁に蔦の模様があり、裏側は細かな傷で曇っている。
澄花は何気なく持ち上げた。鏡の中では、店の橙色の灯りが肌を少しだけ柔らかくした。それでも、気になる場所を探し始めれば、いくらでも見つかった。
「これ、ください」
店主は会計の前に鏡の蝶番を確かめた。開きすぎないか、柄が緩んでいないか。次に、柔らかな布を鏡面へ載せる。澄花の顔はそこでふっと消えた。
包装紙を広げると、店主は鏡を伏せたまま中央へ置いた。最後まで一度も、澄花の側へ反射面を向けない。傷のある裏側だけが見える状態で包み、細い紙紐をかけた。
鏡なのに、買う人を映さず渡される。その扱いが、澄花には少し可笑しかった。
スマートフォンの前面カメラを開く。確認するつもりだったが、自分が映る前に閉じた。断りの文へ戻り、全文を消す。
「予定どおり向かいます。少し遅れたらごめんね」
送信すると、すぐに「急がなくて大丈夫」と返ってきた。顔については何も書かれていない。当然だ。まだ見てもいないのだから。
店主は店内の時計を五分進めていたらしく、外へ出ると約束には十分間に合う時刻だった。急かさないためか、遅れないためか、理由は聞かなかった。
澄花は包みを鞄へ入れた。鏡は必要なときに開けばいい。会う前の自分を、先回りして不合格にするために使わなくてもいい。
店の扉が閉まり、ガラスに一瞬だけ澄花の姿が映った。
彼女は立ち止まらず、そのまま待ち合わせの明るい通りへ歩いた。