鐘の前の番茶

 篠守央介は、昼休みになると職場近くの寺へ行く。

 信心が深いわけではない。境内の隅にある休憩所が、誰でも使えるからだ。

 古い木の卓、長椅子、無料の番茶。昼どきでも人は少なく、鐘楼の影がゆっくり庭を動いた。

 央介は弁当を持っていく。

 同僚と食べる日もあるが、話題が仕事から離れない。寺では、電話を消音にし、海苔弁当の蓋を一人で開ける。

 番茶は少し薄く、日によって熱さが違った。

 毎週木曜、同じ僧が庭を掃いている。

 二人は会えば会釈するだけだった。

 ある日、央介が弁当の醤油をこぼした。卓へ黒い染みが広がり、慌ててティッシュで拭く。

 僧が濡れ布巾を持ってきた。

「跡、残りますか」

「もう色々残ってます」

 卓には湯呑みの輪、細い傷、焦げたような点があった。

「皆、ここで何かこぼしたんですか」

「食べる場所なので」

 央介は布巾で拭いた。

 醤油の染みは薄くなったが、完全には消えない。

「すみません」

「次に誰かが味噌汁をこぼせば、目立たなくなります」

 僧は真顔で言った。

 その日から、少し話すようになった。

 僧は昼に何を食べたか、央介は寺の木の名前を訊く。互いの仕事や家族には踏み込まない。

 鐘が十二時四十五分を知らせると、央介は弁当箱をしまった。

 ある木曜、仕事で昇進の話を断った。

 周りにはもったいないと言われ、自分でも正しいか分からない。

 休憩所へ行くと、僧がいつものように掃いていた。

「決めたあとも迷うこと、ありますか」

 央介が訊く。

「決める前より増えます」

「では決めた意味は」

「歩く方向が一つ減る」

 僧は番茶を足した。

 央介は冷めた卵焼きを食べた。

 庭では風が銀杏の葉を揺らし、線香の香りが薄く流れてくる。

 答えは出なかったが、午後へ戻る時刻になった。

 立ち上がると、醤油をこぼした場所が西日で少し濃く見えた。

 この卓は、誰かの昼休みをきれいに保存する場所ではない。食べ、迷い、少しこぼして、また仕事へ戻るための場所だった。

 央介の指には番茶の温度と海苔の香りが残り、鐘の一音が背中を急かさず職場までついてきた。