開けるだけの段ボール

蓮見花理の部屋には、「いつか」と書いた段ボールがあった。三年前の引っ越しから一度も開けていない。中身を忘れたわけではない。箱は二度の引っ越しを一緒に越え、そのたび「落ち着いたら開ける」と新しい部屋の隅へ置かれた。落ち着くとは、残業が減り、貯金が増え、誰にも笑われなくなる時期のことだったが、そんな月は来なかった。服飾学校へ通おうと買った布と、途中まで縫ったスカートが入っている。説明会へ行った翌月、職場で昇進の話が出た。断るほど嫌な仕事ではなく、学校へ行くほど強い覚悟もない。その間で選べず、布を箱へ入れた。引っ越すたび「いつか」と書き足し、決めなかった三年をガムテープで重ねてきた。説明会の翌週、仕事で昇格の話が出て、花理は申込書を捨てた。安定を選んだことに後悔はないはずなのに、布だけは処分できなかった。

害虫駆除の五日間だけ、花理は短期賃貸で片桐清羅と暮らした。清羅は移動書店の店員で、毎日違う町へ古本を運んでいた。荷物は少ないのに、花理が避難させた「いつか」の箱だけを妙に気にした。

二日目、清羅は箱の上へ腰掛けず、床にしゃがんで訊いた。

「箱って閉じてる間も、中身を守ってると思う?」

「埃からは守ります」

「じゃあ、決めるのは誰から守るんだろう」

花理が黙ると、清羅は小さな鋏を箱の上へ置いた。

「今夜、一箱だけ開けてみない? 捨てなくていいし、取り出さなくていい。蓋を見るだけ」

その言い方が、かえって怖かった。捨てると決めるなら作業になる。続けると決めるなら計画になる。どちらも決めないまま開ければ、三年前の自分と同じ部屋にいることになる。

夜、清羅は本の仕入れで遅くなると連絡してきた。花理は箱を机の下へ押し込もうとした。角に印刷された引っ越し会社のロゴが擦れ、そこだけ白くなっている。箱のほうが、花理より長く待つことに慣れてしまったようだった。

仕事用のパソコンには、今週も修正依頼が並んでいた。頼まれた形へ整えるのは得意だった。自分が作りたかった形だけが、箱の中で止まっている。

花理は鋏を持った。テープの端へ刃を入れると、乾いた音がした。一直線に切るつもりが途中で曲がり、段ボールの表面まで薄く傷ついた。

蓋を少し持ち上げる。橙色の布が見えた。

花理は何も取り出さず、蓋も閉めず、そのまま床へ座った。