雨の名前

 青いドレスを着た者が泣くと雨が降る。ただし涙一粒につき、誰か一人の名前を忘れる。

 井戸が枯れて四十日目、アニエスは村の広場でそのドレスを着た。

 畑はひび割れ、家畜は舌を垂らし、姉ルーネの生まれたばかりの娘も、薄い乳しか飲めずに泣いている。空には雲一つない。

 井戸番のアニエスは、毎朝空の桶を下ろし、底の石が鳴る音を村人に聞かせてきた。水がないと告げる役目ほど、役に立たない仕事はない。子どもたちは舌を濡らすため小石をなめ、大人たちは互いの取り分を疑い始めていた。名を失えば、誰を信じてきたかも曖昧になる。それでも水がなければ、呼ぶ相手そのものがいなくなる。アニエスは空の桶を伏せ、名前より先に命を残すと決めた。

「無理に泣かなくていい」

 ルーネは言った。けれど泣かなければ、明日までに何人も倒れる。

 アニエスは、亡き父の笛を吹いた。調子の外れた子守歌。幼いころ、眠れない夜に何度も聞いた曲だった。

 一粒目の涙が落ちる。

 空に小さな雲が生まれ、アニエスは隣家の老女の名を失った。顔も、焼いてくれた蜂蜜菓子も覚えているのに、呼びかける音だけがない。

 二粒目で、幼なじみの名が消えた。

 三粒目で、亡き父の名が消えた。

 雨はまだ土の表面を濡らしただけだ。

「もうやめて」

 姉が腕をつかむ。その声に、アニエスはさらに泣いた。二人で屋根に上って星を数えた夜。姉が婚礼前に怖いと打ち明けた朝。赤子を初めて抱かせてもらったときの、震えるほどの喜び。

 涙が頬を流れるたび、名前が抜けていく。

 やがて雨音は屋根を叩き、畑の溝を満たした。村人たちは歓声を上げる。

 腕の中へ赤子を差し出され、アニエスは泣きやんだ。

「ほら、この子の名前を呼んで」

 姉だったはずの女性が、祈るように言う。

 赤子の黒い目は知っている。柔らかな重さも、守りたい気持ちも残っている。

 ただ、その子も、目の前の女性も、自分自身さえ、どんな音で呼べばよいのか分からない。

 アニエスは降りしきる雨の中で、名前の代わりに赤子を強く抱きしめた。