雨を弾く絹
范春衡の持つ黄旗だけが、豪雨の中で色を失わなかった。
桐油を引いた絹は水を弾く。鎧も弓弦も黒く濡れる夜に、その旗だけが灯火のように田の上へ浮かぶ。敵は旗を本陣と思い、必ず追う。
将軍は水路図を広げた。
「この畦を北へ進め。追手が石橋を越えたら、旗を止めろ」
「石橋の先は袋田です」
「だから止める」
袋田は三方を堤に囲まれ、南の水門だけが低い。敵千人が入ったところで上流の樋を開けば、腰まで水が上がる。弓兵は撃てず、騎馬は向きを変えられない。
春衡は旗を見た。油絹は雨を弾くが、火にはよく燃える。敵もそれを知っている。
「火矢が来ます」
「旗を守れ」
「私ごと燃えた時は」
「倒れるな。倒れれば、水門役が敵の侵入と見分けられん」
足軽に与えられる説明は、それで十分だった。
袋田は春に植えたばかりの苗で埋まっていた。水門を開けば今年の収穫は消える。村の者は城へ避難している。春衡は、兵千人と米千俵を同じ図の上で量る将軍の指を見た。どちらが重いかは、飢える季節になってから決まる。
春衡は黄旗を掲げ、畦へ出た。味方の列は旗の前を走り、敵には旗に従って退く本隊に見える。実際は、彼一人だけが最後尾だった。
雨幕の向こうで敵の鬨が上がる。火矢が飛んだ。一本目は雨に消え、二本目は旗の上を越えた。三本目が裾へ刺さり、油絹に青い火が走る。
春衡は旗を田水へ伏せたくなった。だが一度でも低くすれば、水門役には停止の合図になる。敵はまだ石橋の手前だ。
彼は燃える裾を素手で掴み、短刀でそこだけ切り落とした。掌の皮が絹へ貼りついた。黄旗は一尺短くなったが、立ったままだった。
石橋が敵の重みで鳴る。百、三百、五百。先頭が袋田へ入り、後続が押し込む。
春衡は田の中央で足を止めた。火矢が胸へ刺さる。鎧の紐が焦げた。旗竿を顎と肩で挟み、倒さない。
堤上の水門役が、短く白布を振った。最後尾まで橋を越えた合図だ。
将軍の太鼓が三度鳴る。
「樋を抜け」
山腹の水門が開き、黒い水が黄旗へ向かって走り出した。