青いインクの証言
ルテアは黒いインクが嫌いだった。
幼いころ、父に書き損じを責められ、黒い染みのついた手で一晩立たされた。だから緊張すると文字が震える。けれど青いインクなら、不思議と息を整えられた。
イグニス公爵の書記になって半年、彼女の机にだけ青いインク瓶が補充されている。
「公文書は黒が規則では?」
尋ねたとき、公爵は帳簿から顔も上げずに言った。
「君の下書きは青のほうが速い。清書は別の者にさせる」
合理性しか信じない冷徹な男らしい答えだった。それでも、彼が彼女の震えを誰にも説明させなかったことが、ありがたかった。
やがて公爵家の会計不正が発覚した。犯人は重臣。証拠を見つけたのはルテアだった。
審問の日、百人の貴族の前で証言台へ立つ。重臣の弁護士が畳みかけた。
「書記風情の記憶など信用できません。声も震えている。公爵に命じられたのでは?」
ルテアの喉が塞がる。言葉が出ない。
「答えなさい」
「待て」
イグニスの一声で、法廷の空気が凍った。
「彼女は急かされると、最初の三語が出にくい」
ルテアは目を見開いた。そんなことまで覚えていたのか。確かに公爵は、彼女へ指示を出したあとだけ、返事を待つ間に必ず書類を一枚めくる。
裁判長が眉をひそめる。
「しかし証言は口頭で行う規則です」
イグニスはルテアの前へ青いインクと紙を置いた。
「規則は真実を聞くためにある。人を怯えさせるためではない」
弁護士が嘲る。
「公爵閣下はご寵愛の書記に、特例をお与えになると?」
「違う」
彼の目が鋭く細まる。
「選択肢を返す。口頭で話すか、書面にするか、証言を拒むか。彼女が決める」
「拒めば、あなたが不利になりますぞ」
「私の勝敗を、彼女の苦痛で買うつもりはない」
イグニスは青い羽根ペンをルテアの右側へ置いた。彼女が左利きだと知っているくせに、あえて手を伸ばさせない位置だ。書くと決めたときだけ、自分で取れる。
長い沈黙のあと、ルテアはペンを取った。
「書面で証言します」
イグニスは裁判長へ向き直った。
「聞いたな。以後、彼女の速度で進めろ」