非常階段の合言葉
夜の学校へ入るとき、私たちは必ず合言葉を言った。
「今日は帰れる?」
「まだ」
それが答えなら、非常階段の三階へ上がる。
親友の家では、両親の喧嘩が続いていた。私の家では、兄が受験に失敗してから誰も大きな音を立てなくなった。
帰りたくない夜、私たちは学校の裏口から入り、非常階段の踊り場で時間をつぶした。
扉の鍵が壊れていることは、大人には言わなかった。言えば直され、この場所がなくなる。
何か特別なことをするわけではない。
宿題をする。自販機で買った飲み物を分ける。家へ帰ったら言えない愚痴を一つずつ置く。
「離婚するかも」
親友が初めて言った夜、階段の窓に雨が当たっていた。
私は「大丈夫」と言わなかった。
代わりに、
「怖い?」
と聞いた。
親友はうなずいた。
私も兄の部屋の前を通るのが怖いことを話した。何を言っても傷つけそうで、家族なのに息を止めて歩くこと。
「家って、帰る場所じゃない日もあるね」
親友が言った。
私たちは黙って缶の炭酸を飲んだ。泡の音が、雨に混ざった。
その夜、警備員の足音が近づいた。
逃げようとしたが、親友が動かなかった。
「もう、見つかってもいいかも」
私たちは扉の前で待った。
現れたのは、養護の先生だった。
驚いた顔をしたあと、叱るより先に、
「今日は帰れる?」
と聞いた。
私たちは顔を見合わせた。
合言葉を知っているはずがないのに、同じ言葉だった。
「まだ」
親友が答えた。
先生は非常階段の故障を知っていた。何度か私たちの忘れ物も見つけていたらしい。
その日から、夜の忍び込みは終わった。
代わりに、放課後の保健室を少し遅くまで開けてもらえることになった。家族へすぐ連絡しない約束で、必要なら相談員にもつないでくれた。
秘密の場所を失うのは寂しかった。
でも、大人に知られたから壊れたのではなく、守られ方が変わったのだと分かった。
卒業前、非常階段の鍵が修理された。
最後に扉の前で、親友が聞いた。
「今日は帰れる?」
私は少し考えた。
「帰れる。でも、途中まで一緒に」
私たちは合言葉を、逃げるためではなく帰るために使った。