音楽室の一小節

井守小鳩は、放課後の音楽室で同じ一小節を四十三回弾いた。

合唱祭の伴奏、その最初の難所。右手は届くのに、左手が一拍遅れる。止まって弾けばできる。前からつなぐと崩れる。

四十四回目も失敗した。

小鳩は鍵盤へ額をつけた。

伴奏者へ立候補したのは自分だった。教室で「弾ける人」と言われ、断る理由を探しているうちに手を挙げていた。みんなは、小学校から習っているなら簡単だと思っている。

廊下から、三回ノックする音がした。

誰も入ってこない。

小鳩はもう一度弾いた。

失敗した瞬間、扉の向こうで机を叩くような音が鳴った。

タン、タン、タン、タン。

正しい拍だった。

小鳩は扉を開けた。

廊下の床に、合唱の指揮をする男子が座っていた。膝の上に楽譜を広げ、鉛筆で拍を刻んでいる。

「聞いてたの」

「四十三回目から」

「一回しか聞いてないじゃん」

「その前からいたら、怖いだろ」

「今も十分怖い」

男子は立たず、楽譜の一小節を指した。

「ここ、左手を合わせようとしてる」

「合わせるところでしょ」

「歌は右手のあとに入る。左手、少し遅くてもいい」

「楽譜どおりじゃない」

「みんなも楽譜どおりには歌わない」

小鳩はピアノへ戻った。

扉は開けたままにした。

男子が廊下で四拍を叩く。小鳩はその音に合わせて弾いた。左手を急がせず、右手の余韻を待つ。

四十五回目。

一小節が途切れずに通った。

小鳩は続けて次の頁まで弾いた。廊下の拍は途中で消えたが、誰かがそこにいると思うだけで指が軽かった。

曲の終わりまで行き、振り返る。

男子は床に寝転び、楽譜で顔を隠していた。

「寝てた?」

「聞いてた」

「拍、止まった」

「要らなくなったから」

「勝手に決めないで」

音楽室の時計は、下校時刻を十分過ぎていた。

二人で鍵を職員室へ返しに行く途中、小鳩は訊いた。

「本番で止まったら?」

「俺が振り直す」

「合唱がずれる」

「みんなでずれれば、ずれじゃない」

本番の日、その一小節は少しだけ遅れた。

指揮棒も、歌い出しも、教室全員が同じだけ待った。

客席にはわからないほど短い間だった。

小鳩には、放課後の廊下から届いた四拍ぶんの余白が、そこに確かに聞こえた。