風の強い歩道橋

 ピアノ発表会の帰り、黄色いドレスの梢が歩道橋を指した。

「近道しよう。橋の上なら風が見えるよ」

 母の真琴は、街路樹を揺らす突風の音を聞いた。

 前の人生でも、娘はまったく同じことを言った。真琴は早く帰って夕食を作りたくて、「走らないならね」と答えた。二人が橋の中央へ差しかかった時、ビル屋上の巨大看板が外れた。

 真琴だけが手すりの陰で助かった。

 それからの二十年、風の強い日は耳を塞いでも、黄色い布が宙を舞う音が聞こえた。真琴は看板を管理した会社を訴え、勝訴し、同じ型の看板を全国から撤去させた。それでも、最初の一枚の下にいた娘だけは戻らなかった。

 目覚めれば、真琴はまた三十五歳で、娘の小さな手を握っていた。

「近道しよう。橋の上なら風が見えるよ」

「今日は下から見よう」

 以前とは違う返答に、梢は首を傾げる。

「風って、下から見えるの?」

「見えない。でも、あなたは見える」

 真琴は娘を抱き上げ、歩道橋の横にある地下通路へ駆け込んだ。発表会でもらった花束が腕から落ちたが、拾わない。前の人生では花を守ろうとして半歩遅れた。今度は、梢以外を全部置いていく。

 階段を五段下りたところで、頭上から金属の裂ける音がした。

 轟音。

 地面が揺れ、入口から砂埃が吹き込む。振り返ると、看板が歩道橋の中央を押し潰していた。ちょうど二人が立っていたはずの場所へ、発表会の広告が裏返しに落ちている。

 梢は母の首へ強くしがみついた。

「お母さん、未来が見えるの?」

「一度だけ、見たことがある」

 真琴は震える足で地下通路を進んだ。娘の体温が腕に重い。梢は自分で歩けると抗議したが、真琴は下ろさなかった。その重さを、失ってから何度夢に求めただろう。

 午後五時四分。

 前の人生で警察が死亡確認をした時刻に、梢の腕時計が電子音を鳴らした。

「五時だ。今日のご褒美、プリンだったよね」

 事故の時刻を越えた娘が、明日のことではなく今夜のデザートをねだった。

 真琴は初めて、風の音の向こうに未来が続くのを聞いた。