駅員室の大きなうちわ

水原柚菜は、通勤電車では荷物の少ない女だった。黒いトート、折り畳み傘、文庫本。けれどライブの日だけは、虹色アイドル〈虹色パレード〉の未羽と書かれた大きなうちわを、専用ケースに入れて運ぶ。

月曜の朝、会社に着いてからケースがないことに気づいた。前夜の帰り、駅のベンチへ置き忘れたらしい。しかもケースのポケットには名刺が入っていた。未羽が客席の端まで何度も手を振ってくれた夜の余韻が、一瞬で冷えた。会社へ電話されれば、取引先対応で淡々としている水原と、胸の前で大きな文字を掲げる柚菜が同じ人だと知られる。

昼前、代表電話が鳴った。

「水原柚菜さまの落とし物について、駅からです」

フロア中に聞こえた。柚菜が受話器を取るより先に、庶務の椎名環が応対した。

「はい、黒いケースですね。中身の読み上げは不要です。本人確認して伺います」

電話を切ると、環は何も尋ねず外出届を渡した。柚菜はかえっていたたまれなくなった。

「大きな、うちわなんです。アイドルの」

「落とし物の価値は、サイズでも趣味でも決まらないでしょう」

駅員室では、ケースが新聞紙に包まれていた。若い駅員が「破損確認をお願いします」と広げる。未羽の笑顔と、きらきらした文字が蛍光灯の下に現れた。後ろには待っている人もいる。

以前の柚菜なら、違いますと逃げたかもしれない。だが環の言葉を思い出し、うちわの持ち手を握った。

「私のです。昨日の公演で使いました」

駅員は事務的に頷き、拾得者からの付箋を渡した。

〈未羽ちゃんを置いて帰らないでください〉

小さな字の横に、虹が描かれていた。見知らぬ誰かも、この大きな顔を笑わずに届けてくれたのだ。

会社へ戻ると、柚菜はうちわを黒いケースへしまった。ただしロッカーの奥ではなく、トートの横へ立てかけた。退勤時、環が「今日は一緒に帰れますね」と言う。

柚菜はケースを抱え直し、初めて笑って答えた。

「はい。もう置いていきません」