とろろ鉄板の縁
野々村結人が終電を逃して「まどろみ」へ入ると、店主は鉄板を温め始めた。
「縁、よく焼くんだったな」
結人はとろろ鉄板焼きの中心より、薄く広がって焦げた周りが好きだった。二年近く来ていないのに、店主は箸の順番まで覚えているようだった。
鉄板へ白い生地が流れ、じゅわっと低い音が広がった。出汁と山芋の甘い匂いが立ち、表面には細かな泡が次々と開く。縁はきつね色に固まり、中心は湯気を抱えたまま、わずかに揺れていた。
結人の鞄には、会社の診療室でもらった休養勧告書が入っている。
ここ一か月、朝になると胸が締まり、会議中に指が震えた。医師は休むように言った。だが、担当案件の公開は来週だ。上司へ見せれば、迷惑をかける。見せずに出社して倒れれば、もっと迷惑をかける。その考えを何周もして、今日は社内の個室から出られなくなった。
明日から連絡を全部切ろうかと思っていた。端末の電源を落とし、何も説明せず休む。誰かに手続きを頼む力も残っていない。
昨日は母からの電話にも出られなかった。元気かと聞かれれば、元気だと答える力が要る。案件の共有フォルダは自分しか整理しておらず、休めば混乱するのも事実だった。だからこそ、自分が倒れるまで続ける仕組みそのものが、もう限界なのだと分かっていた。
店主は鉄板の向きを変えた。
「縁、もう剥がれるぞ」
結人が箸を入れると、焦げた部分はぱりっと離れた。中心はまだ柔らかく、持ち上げると形を失った。
結人は会社の申請画面を開いた。勧告書の写真を添付し、明日から一週間の病休を申請する。上司には、午前九時に人事同席で十分だけ話したいと送った。さらに診療室の次回予約を確定した。
案件を誰が引き継ぐかは決まっていない。上司が嫌な顔をするかもしれない。一週間で戻れる保証もない。それでも、消えるのではなく、休む手続きを選ぶ。
焦げた縁を食べ終えるころ、中心は少し固まっていた。熱い出汁の味は穏やかで、鉄板から離れたあとも、舌の上に柔らかな温度が残った。