ない階のエレベーター
新津芙美が古い雑居ビルを訪れたのは、取り壊し前の内覧会だった。
十二年前、ここには小さな広告会社があった。芙美はそこで働き、同僚の恋人と同棲していた。
彼が地方支社への転勤を告げた夜、芙美は手紙を書いた。
《仕事を選ぶなら、私たちは終わりです》
本当は、一緒に来てほしいと言えなかった。断られるのが怖かった。彼は転勤を選び、二人は別れた。
エレベーターに乗ると、階数ボタンの下に、数字のない丸いボタンがあった。
芙美が、まだ捨てられない手紙を握ったまま押すと、扉が閉まった。
開いた先は十二年前の事務所だった。
自分の机に若い芙美が座り、封筒へ切手を貼っている。壁の時計は、郵便局が閉まる十分前を指していた。
エレベーターの扉が再び開くまで、この時間にいられるのだと分かった。
芙美は若い自分の手から封筒を取った。
「誰?」
「十二年後のあなた」
「もっとましな服、持ってないの?」
「そこは変わらない」
若い芙美は警戒しながら、未来の左手を見た。指輪はない。
「別れたんだ」
「うん」
「じゃあ、この手紙は正しい」
「正しくない。でも、彼について行くのも正解じゃなかった」
「何それ」
芙美は封筒を破いた。
若い自分が怒って立ち上がる。
「じゃあ、何て言えばいいの」
「怖い、って」
「そんな格好悪いこと」
「格好よく別れて、十二年引きずるよりまし」
遠くでエレベーターの到着音がした。
若い芙美は新しい便箋を出した。
《転勤すると聞いて、怖い。私のことも、これからのことも、一緒に考えてほしい》
書き終える前に扉が開き、芙美は現在へ引き戻された。
ビルの外へ出ると、携帯に見知らぬ通知があった。
《今年も誕生日おめでとう。十二年前、正直に書いてくれてありがとう。あのあと別の道を選んだけど、君を嫌いにならずに済んだ》
送り主の名前を見て、芙美は笑った。
復縁の奇跡ではなかった。
それでも彼女は、十二年ぶりに短い返事を打った。
《ありがとう。私も、やっと嫌いにならずに済みました》