わからないの置き場所
瀬尾茉白は、会社帰りの小さなジャズバーで、炭酸水を一杯だけ飲む。音楽が好きというより、誰にも質問されない場所が必要だった。
その夜、客は茉白一人だった。ステージでは、短い銀髪の女がサックスを分解して布で拭いている。城戸郁美、四十六歳。壁の出演者紹介にそう書かれていた。
「知らない曲に合わせるとき、最初に何をします?」
郁美が突然訊いた。
「よく聴く、とか」
「私は吹かない」
郁美はマウスピースを光へかざした。
茉白は建築事務所の新人で、会議ではわからない単語が出ても頷く。あとで検索し、間に合わなければ推測で図面を直す。入社時、先輩に「瀬尾さんは察しがいい」と褒められてから、その役を手放せなくなった。質問を一つするより、夜に十頁調べるほうを選ぶ。わからないと言えば、採用された理由まで消えるような気がした。先週はそれで寸法を一つ間違えたが、誰にも言えずに自分で徹夜して修正した。翌朝、先輩は完成した図面だけを見て「やっぱり察しがいい」と笑った。茉白も笑い返したが、褒め言葉を受け取るほど、次の質問がしにくくなった。知らないことより、知っているふりを守る作業のほうが増えていた。
「吹かなかったら、置いていかれませんか」
「一小節くらいなら」
郁美はケースを閉じた。
「明日、一回だけ『わからない』を先に言ってみて。知ってる顔を作る前に」
「それで仕事を任せてもらえなくなったら?」
郁美は答えず、店の時計を見て「終電」とだけ言った。正解も保証もくれない。
翌朝の設計会議で、所長が新しい構造方式の略称を口にした。全員が資料をめくる。茉白も聞いたことがあるような顔で頷きかけた。
「瀬尾さん、この条件なら納まりはどうする?」
視線が集まる。茉白の頭には、昨夜の空白の一小節が浮かんだ。知らないまま音を出せば、またどこかを直す夜が来る。
茉白は手にしたペンを机へ置いた。
「わかりません。断面図を見ながら、確認させてください」
会議室が一拍だけ静かになった。茉白はその空白を埋めようとせず、資料の該当ページを開いた。