アンコールのない夜
折原昂希の全国ツアー最終日、作曲家の久宝寺文香は舞台袖にいた。
昂希は開演前、鏡越しに言った。
「終演後、彼女とのことを発表する。俺たちはもう終わりだ。騒ぐと君まで業界にいられなくなるぞ」
隣の楽屋には、昂希と噂になった新人歌手がいる。文香は「分かった」とだけ答えた。
一曲目のイントロが流れ、昂希が中央へ出る。観客が歓声を上げた。
だが、彼が歌い始める直前、音が止まった。
舞台監督がインカムへ手を当てる。大型スクリーンから昂希の名前が消え、照明も落ちた。
「何してる。早く再生しろ」
昂希が袖へ怒鳴る。
プロデューサーが文香の横から答えた。
「使用許諾が撤回されました。本日の演目十八曲のうち、十五曲の作詞作曲権は久宝寺さんにあります」
昂希は笑った。
「夫婦げんかで公演を止める気か。契約は済んでる」
文香は契約書の該当箇所を開いた。ツアー終了日までの許諾は、前日の公演で満了していた。最終日の追加公演について、事務所は文香へ更新申請を出していなかった。昂希が「妻なんだから後で判を押す」と処理を止めていたからだ。
「今から払う。倍でもいい」
「許諾しません」
客席がざわめく。会場には演目変更と希望者への払い戻し案内が表示されたが、席を立つ者はほとんどいなかった。昂希はそれを自分への支持だと思い、勝ち誇るように振り返った。
「俺を見に来た客だ。曲だけでどうにかなると思うなよ」
そのとき、隣の楽屋から新人歌手が出てきた。昂希の相手ではない。彼女もまた、昂希から「文香とは離婚済み」と聞かされていた。
新人歌手は昂希を見ず、文香へ頭を下げた。
「新曲を、歌わせてください」
スクリーンに新しい題名が浮かぶ。作詞・作曲、久宝寺文香。歌唱者の欄には新人の名があった。すでに配信会社と会場が許諾を確認し、観客へ演目変更が告知されている。
昂希がマイクを握ったまま立ち尽くす横を、新人歌手が通り過ぎた。
指揮者が文香を見た。
文香がうなずくと、今度こそカウントが始まった。