カーテンの下から
御子柴侑真が交換日記を始めた相手は、顔を知らない。
昼休み、侑真は保健室の奥のベッドを使った。右足を骨折し、教室から松葉杖で移動すると、それだけで汗をかいた。
ある日、枕元に緑のノートがあった。
――午後にここを使う人へ。ベッドの柵、少し軋みます。
保健の先生へ渡す連絡だと思い、侑真は返した。
――昼に使う人より。窓側のカーテンも途中で引っかかります。
翌日、返事があった。
――知っています。三回目で諦めるのがコツです。
午後にこのベッドを使う誰かは、頭痛で時々休むらしい。名前は書かなかった。症状の話も詳しくしなかった。
代わりに、保健室で聞こえた音を書いた。
――校庭から笛が七回。
――先生がお湯を沸かした。
――二年生が氷をもらいに来た。
――雨の日は屋根の音が近い。
侑真は昼に書き、相手は放課後に返す。緑のノートは枕の下を行き来した。
避難訓練の日、非常ベルが鳴った。
侑真が松葉杖を探していると、隣のベッドのカーテンが開いた。制服姿の女子が、耳を塞いで座っていた。
二人とも相手を見た。
「昼の人?」
「午後の人?」
同時に言って、笑った。
先生に急かされ、二人は廊下へ出た。侑真は足が遅く、彼女は大きな音が苦手だった。列の最後を、同じ速さで歩いた。
校庭へ着くまで、何を話せばいいかわからなかった。字なら毎日話しているのに、声にすると一つ目の言葉が見つからない。
彼女が先に言った。
「松葉杖、床で三回鳴る」
「何が」
「歩く音。こつ、こつ、ずるって」
「最後のは失敗してる」
「日記に書こうと思ってた」
侑真も耳を澄ませた。
彼女の上履きは、右だけ少し高い音がした。
「そっちは、きゅ、きゅ、無音」
「三つ目は?」
「左足を引きずると鳴らない」
「よく聞いてるね」
「交換日記の癖」
点呼が終わるころには、二人の歩く音が同じ間隔になっていた。
翌日、緑のノートはカーテンの下から直接渡された。
――昼の人へ。顔を知った感想。
――午後の人へ。字のほうが大人っぽい。
彼女はすぐ下へ書いた。
――そちらは、歩く音のほうが格好いい。
侑真は松葉杖を一本、わざと床へ強く鳴らした。
保健の先生に叱られ、カーテンの向こうで彼女が笑った。
顔より先に字を知り、名前より先に足音を覚えた。侑真の骨が治ったあとも、緑のノートだけは保健室の枕元を離れなかった。