コピー機の余白
冴は、退職届をコピーするためにコンビニへ来た。
提出するのは明日ではない。上司に話す日も決めていない。ただ、一枚しかない紙を手元に置いておくのが怖くて、同じものをもう一枚作りたかった。
午前二時半のコピー機は、誰にも急かされていなかった。
原稿台の蓋を開ける。
そこに、別の紙が残っていた。
子どもの描いたような太い線で、四角い家と三人の人が描かれている。空には大きすぎる月。端には、たどたどしい字で「おばあちゃんへ」とあった。
冴はそれ以上見ないように紙を伏せた。
店員を呼ぶ。若い男性がレジから出てきて、紙を両手で受け取った。
「忘れ物で預かります」
それだけ言い、透明な袋へ入れる。袋の中で月だけが裏から薄く透けた。
コピー機へ戻る。
退職届を置き、蓋を閉める。画面で白黒を選び、部数を一にする。開始ボタンを押すと、内部で光が走った。
うぃん、と機械が動く。
紙が吸い込まれる。
ローラーが回る。
一枚の退職届が、二枚になる。
出てきた紙は温かかった。冴は二枚を重ね、ずれた角をそろえた。同じ文章なのに、上の紙と下の紙では役割が違うように見えた。一枚は提出するかもしれないもの。もう一枚は、提出しなくてもいいと決めるためのもの。
コピー機の表示が「ありがとうございました」に変わる。
冴は原稿台をもう一度開け、何も残していないことを確かめた。
レジの横では、忘れ物の透明な袋が小さく揺れていた。空調の風が届いているらしい。知らない誰かが描いた大きな月が、店の白い照明の下で行き先を待っている。
持ち主が戻るかどうか、冴には分からない。
退職届を本当に出すかどうかも分からない。
分からないものを、今すぐ決めなくてもいいのかもしれなかった。
店を出ると、実際の月は雲に隠れていた。冴は二枚の紙をバッグへ入れ、ファスナーを閉じた。
部屋へ戻ったら眠れなくてもいい。朝までに人生を決めなくてもいい。
今夜は、紙を二枚にした。それで充分だと思えた。