コンロ脇の焦げ跡
瀬尾周平は、父の台所を白く塗り直すために来た。小さな油火災の跡が、コンロ脇から天井まで黒く伸びている。和巳は「鍋を見ていただけだ」と言い張ったが、見ていた鍋は焦げ、火災報知器は電池切れだった。
「まず油を落とす」
「上から塗れば見えん」
「染みが浮く。あと、原因も消えない」
「説教しに来たなら帰れ」
「塗りに来たんだよ」
二人で壁を洗った。重曹水を吹き、布で擦る。黒い汁が腕を伝った。和巳は脚立の上へ乗ろうとし、周平が奪った。
「一人でできる」
「できなかった結果がこれ」
「一回だ」
「一回で家は焼ける」
父が年を取ったと認めるのが怖い。和巳がそれを認めないことは、もっと怖い。だが周平には同居する余裕も、仕事を辞める覚悟もなかった。心配だけを置いて帰る自分も、父と同じくらい勝手だと思う。
下塗り材を塗ると、焦げ跡は薄い灰色になった。乾く間、和巳が缶コーヒーを二本開けた。片方を脚立の上にいる周平へ差し出す。
「検査、行けって言うんだろ」
「物忘れ外来」
「名前が気に入らん」
「じゃあ脳の点検」
「車みたいに言うな」
「車なら毎年やるだろ」
和巳は返事をしなかった。
二度塗りしても、光の角度によって黒い筋が見えた。周平が三度目の缶を開けようとすると、父が止めた。
「もういい。残しとけ」
「見えるぞ」
「見えるほうが、火を消したか確認する」
それが反省なのか強がりなのか、周平には分からなかった。
最後に新しい火災報知器を取り付けた。和巳は嫌がったが、電池を抜かなかった。周平は冷蔵庫へ、曜日ごとの薬入れと自分の勤務表を磁石で留めた。
「火曜は遅い」
「来るとは言ってない」
「飯を炊く時間の話だ」
帰り際、周平は流しの横に新しいエプロンが二枚掛かっているのを見た。片方は父の紺色。もう片方は、周平が作業中に使った灰色だった。洗って乾かすためではなく、次も使える高さに掛け直されていた。