シナモンを抜いた嘘

安西美晴は、親友を自分の会社へ紹介するため、カフェ〈香路〉で待っていた。

「カフェラテを二つ。一つはシナモン多め、もう一つは抜きで」

バリスタの橘圭吾は、耳の後ろに一本のシナモンスティックを挟んでいる。注文を聞くと必ずカップの香りを確かめ、同じ言葉を口にした。

「香りは、嘘を急がせます」

美晴は紹介制度の資料を鞄へ押し込んだ。採用されれば、紹介者に十万円の報奨金が出る。親友の柚葉は転職活動が長引き、仕事内容にも興味を持っていた。

ただし、美晴の部署では半年で三人が辞めている。上司は部下の成果を奪い、深夜にも私用端末へ連絡する。美晴自身も転職サイトを開いていた。

「会社の悪いところって、どこまで話すべきですか」

「悪くないところだけ話す予定だった人の質問ですね」

圭吾はシナモンを振る手を止めた。

「本人が決めることだから、余計な先入観を与えたくなくて」

「決める材料を抜くことを、配慮とは呼びません」

圭吾は二杯のラテを並べた。一杯には褐色の粉をたっぷり振り、もう一杯には何も載せない。

「飲み比べてください」

シナモンの杯は甘く華やかだったが、飲み込んだあとに豆の焦げた苦味が残った。何も載せない方は、最初から焦げた匂いが分かる。

「香りが悪いわけではありません。ただ、下にあるものまで消えた気になる」

美晴は紹介制度の資料を出した。圭吾は報奨金の箇所を見て、耳のシナモンスティックを机へ置く。

「十万円が欲しいことも、言えばいい」

「そこまで?」

「秘密にするから、相手の選択をあなたの都合で囲うことになる」

逃げ道のない答えだった。けれど圭吾は、柚葉が来るまでの間に話す順番を紙へ整理してくれた。仕事内容。給与。退職者の数。上司の言動。紹介報奨金。そして、美晴自身も辞めようとしていること。

「断られたら、友達まで失いそうです」

「友達なら、求人より先に残ります」

入口のベルが鳴り、柚葉が現れた。美晴はシナモン多めの杯を渡す前に、「最初に話しておくことがある」と切り出した。

圭吾は二人の間へ、耳に挟んでいた一本を横向きに置いた。まるで境界線だった。

話を聞き終えた柚葉は、応募はしないと答えた。それから笑って、「十万円は残念だけど、美晴も早く逃げなよ」と言った。

帰り際、美晴は圭吾へ尋ねた。

「香りは、嘘を隠すんじゃなくて、急がせるんですね」

圭吾は境界線にしたシナモンを折り、二人のカップへ半分ずつ添えた。

「ええ。隠したいものがある人ほど、先にいい匂いを振りかける」

今度の香りは、何も覆わず、正直な苦味のあとに残った。