一人十二円のカルテ
美容サロンの顧客名簿売却会議で、秋津島芙美は受付一年目として、三万六千四百十二件のデータを確認していた。買い手は美容医療クリニック。顧客一人当たり十二円、総額四十三万六千九百四十四円の契約だった。
サロン社長は、提供するのは年齢層と施術傾向だけだと説明した。契約書にも「匿名化済みマーケティング情報」とある。
芙美は買い手が用意したサンプル画面を開いた。氏名、携帯番号、予約履歴のほか、金属アレルギー、妊娠可能性、手術痕、服薬中の薬まで表示された。
一件目は芙美自身だった。入社前、旧姓で客として通った記録である。買い手が独自に集められる情報ではない。
社長は、テスト用に芙美のデータだけ渡したと答えた。
芙美は転送記録を示した。三万六千四百十二件を一つの暗号化ファイルで送信済み。受領印は前夜午後十時二分だった。サンプルではなく全件である。
さらに顧客同意書では、健康情報の利用目的は「安全な施術の提供」に限定されていた。第三者提供欄は空白。ところが売却用の同意一覧では、空白へ一括でチェック画像が貼られている。画像の作成者はサロン社長、作成時刻は売却会議の朝だった。
社長は、十二円なら大きな利益ではなく、提携案内で客にも得があると言った。
芙美は自分の行を画面から消さずに答えた。
「安ければ売っていい情報になるわけではありません。十二円で買われる側は、価格交渉にも参加していません」
クリニックの法務担当が受領データの封印を命じた。サロン社長の実印は契約欄へ降りなかった。
クリニックの営業計画には、アレルギーや手術歴を使って施術メニューを変え、一人当たりの成約率を上げる式があった。十二円で仕入れた情報から、数十万円の契約を取る計画である。芙美は、健康情報を入力した客が安全確認以外へ使われると想像できたかと尋ねた。
一人十二円のカルテが、四十三万円の決裁より重く机に残った。