一本になる前
「一本取ったら、終わりにしよう」
最後の稽古で、巴が言った。
相手は志津。入部した日から同じ階級で、乱取りの相手も、大会の代表枠も、いつも一つを二人で奪い合った。
畳の外では一緒に帰った。畳の上では、一度も譲らなかった。
三年最後の大会は、巴が代表で出て初戦敗退。志津は補欠席から声を枯らした。帰りのバスでは二人とも試合の話をしなかった。
引退式が終わり、後輩が帰った道場で、二人だけが柔道着の帯を締め直した。
「一本取ったら終わりって、どっちが?」
「取ったほうが」
「取られたほうは終われない」
「じゃあ取られないで」
礼。
組んだ瞬間、三年間の癖が手の中へ戻った。
志津は右襟を深く取る。巴は袖を切る。足が探り合い、畳が鳴る。
巴が大内刈りへ入ると、志津は腰を引いて返した。志津の背負投を、巴は一歩外して潰す。何度も投げかけ、何度も戻る。
互いに次がわかる。
一年のころは、それが腹立たしかった。二年では怖かった。三年になると、わかっても止められない技があることを知った。
志津の足が、巴の足首へ絡んだ。
巴は崩れかけたが、袖を引いて耐えた。そのまま体を回せば、志津の背が落ちる。
一本になる角度だった。
けれど巴は、手を緩めた。
二人は横向きに倒れ、畳を転がった。
「今、取れたでしょ」
志津が息を切らして言う。
「取れてない」
「逃がした」
「志津もさっき逃がした」
「気づいてた?」
「三年間、相手してるから」
立ち上がり、また組む。
閉門の放送が流れた。顧問が入口から「あと一分」と告げる。
「一分で一本」
「無理」
「弱気」
「お互い、取る気ないくせに」
それでも二人は技をかけた。
残り十秒。志津が内股へ入る。巴の体がふわりと浮いた。投げられる、と思った瞬間、志津の軸足が止まった。
巴は空中で笑った。
「ほら」
「うるさい」
終了のブザーが鳴る。
二人は立ったまま組み合い、どちらも畳へ落ちなかった。
礼をするとき、巴の額から汗が一滴、畳へ落ちた。
「結局、終わらなかったね」
「部活は終わる」
「じゃあこれは?」
「保留」
帯を解き、道場の灯りを消す。
最後の乱取りに勝者はいなかった。
だから巴は今でも、あの一分の続きを、どこかでまだ取られていない一本のように覚えている。